2016年10月29日

クレア・マリィ「イデオロギー・アイデンティティ・ディザイヤー」

現在と性をめぐる9つの試論




クレア・マリィ「イデオロギー・アイデンティティ・ディザイヤー−−言語とセクシュアリティ研究を問う」pp. 233-256

クイア理論では強制的な規範を問う姿勢が強調され、既存のジェンダー(性)規律にもとづくセクシュアリティ(性愛)の「自然化」も問題にされている。(p. 233)


クイア理論とはひとつの学問分野をさし示すというよりは、強制「規範性」を問う姿勢であることを強調しておきたい。ここで用いる「クイア」とは、反異性愛主義的な視点を示し、クイア理論とは、アイデンティティを偶発的とみなし、間発話者のみならず、発話者内の差異に焦点をあてる理論である。(p. 245)


 90年代に入ると、人文科学全体における理論上の変革と並行して、ジェンダー研究においても、人間社会や文化における言語の果たす役割と言語と主体性をめぐる議論が持ち上がる。ジェンダーと生物学的性を二項対立で捉えることに対する疑問を経て、ジェンダーは遂行的とされ、多様性や局地的な(ローカルあるいは場面に根ざした)視座の重要性が強調されていく。(p. 235)


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2016年10月28日

スーザン・M・オーキン『正義、ジェンダー、家族』

正義・ジェンダー・家族




 次世代にジェンダーを再生産するという点で、家族はジェンダーの核心である。これまでみてきたように、わたしたちの社会で典型的な家族生活は、女性にとっても子どもにとっても正義に適っていない。さらに、強い正義の感覚を備えた市民を育成することもできない。両性間の平等という美辞麗句が語られる一方で、伝統的もしくは準伝統的な家族内の分業はつづいている。主たる親になるはずだという期待のなかで人生を選択していくことで、女性の人生は脆弱なものになってしまう。賃労働をしてもいなくても、この期待が現実化する結婚生活のなかで女性はより脆弱になる。そして、離別や離婚の際にはたいていの場合、元夫の十分な支援なしに女性が子育ての責任を引き受けるため、女性の脆弱さはもっとも顕著になる。およそ半分の結婚が離婚にいたるということは、およそ半分の子どもたちが混乱を経験し、ジェンダー構造化された結婚と離婚がもたらす社会経済的な状況によって、大きなダメージを受ける可能性があるということだ。わたしは、非常に重要な理由から、家族は正義に適った制度である必要があると論じ、現代の正義の理論が女性とジェンダーを無視してきたことを明らかにしてきた。わたしたちはこの不正義にいかに対処したらよいのだろうか。

 これは複雑な問いである。なぜ複雑かと言えば、わたしたちの社会は個人が異なる人生を送る自由に大きな価値を置いており、ジェンダーをめぐる多くの論点において共通の合意をもっていないからだ。さらに、わたしたちの性的差異と性別役割をめぐる信念の多くが、ジェンダー構造化された社会のなかで形成されてきたことが明らかだからである。社会が集合的な歴史の影響を強く受けているのと同じように、わたしたちの心的構造は、個人的な歴史のなかでジェンダーに深く影響を受けている。わたしたちの社会にはジェンダーをめぐる共有された意味がないために、個人的自由と社会正義の両方に誠実に対処しようとする際には、難しい決断を迫られる。自分たちの個人的な生においてどのように労働と責任を分担するかは、個人の自由に委ねられる問題のひとつであるが、その決定がもたらすさまざまな影響を考えれば、正義の原理によって統制されるべき事柄に属するからだ。政治、道徳理論の言語で言えば、「善」の領域と「権利」の領域の双方に属する問題であるのだ。

 わたしは女性と子どもの脆弱性をめぐる差し迫った問題を公正に解決するためには、賃労働と不払い労働、生産労働と再生産労働の男女間での平等な分担をすすめる必要があると考えている。わたしたちは、皆がこのような人生を選択できるような未来をつくるべきではないだろうか。正義に適った未来とは、ジェンダーのない未来であろう。そのような未来の社会構造と実践においては、人びとの性別は、目の色や足の大きさと同様、重要性をもたない。「男性」と「女性」の役割についてのいかなる想定もなく、出産と、子育てや他の家族的責任とが概念的に切り離され、男性と女性が家庭の責任を平等に分担していなかったり、子どもたちが片方の親だけと多くの時間をともにしていることが、むしろ驚かれたり関心の的となったりする。この未来では、幼児の世話からあらゆる賃労働、政治の場にいたるまで、すべての生活領域において男女は平等なメンバーとなっている。こうした社会であれば、子育てに従事してしまえば社会的に影響力をもつ地位を達成することができない、ということはないだろう。そして、中絶やレイプ、離婚条件やセクシュアル・ハラスメント、その他の重大な問題が、これまでのように、男性優位の構造のおかげで権力をもつにいたった男性が多数を占める議会や裁判によって決定されることはない。わたしたちが少しでも民主主義的な理想を実現しようとするなら、ジェンダーを排することは不可欠である。このような社会をつくるためには、家庭のなかだけでなく、あらゆる制度や家庭の外の社会的場における根本的な変化が不可欠である。(pp. 279-280)


 現在の結婚の構造と実践を批判する一部の人びとは、仕事における契約と同じように、男女の自由な合意のもとで結婚生活を営めばよいと主張する(Shultz 1982; Weitzman 1981)。しかしこの主張は、わたしたちの社会のジェンダー化された文化と精神構造、現在の実質的な男女間の不平等や、そしてもっとも重要なこうした関係のもとでの子どもたちの福祉について十分に理解していない。(中略)離婚の条件については当事者間の合意にまかせておくことが正義に適ったことだという論者もいる。しかしこれでは、離婚する二人の当事者のあいだに、より大きな不平等が生まれる可能性がある。このような実践は、女性や子どもたちに、いまより大きな損害を与えることさえあるだろう。夫と社会経済的に対等なほんの一握りの女性たちであったとしても、「自由 free」な「交渉 bargain」を通じて、経済的な支援や子どもの養育権について、正義に適った解決に至ることはほとんどできないだろう。(pp. 282-283)


男女の関係をより平等にするために、公的な政策ができること、するべき方策はたくさんある。この点についても、もっとも説得力があると考えられる現代的な正義の思考方法を振り返りながら論じてみよう。特に、ロールズの原初状態と、ウォルツァーの分離した領域における正義という複合的平等の概念に依拠してみたい。わたしはこのふたつは両立させることができると考える。(p. 282)


 まず公的政策と法は、両性の社会的差異を前提にするのではなく、子どものケアに対する親の責任の共有化を前提にし、かつ促進すべきである。フェミニスト以外の人びとは、女性と子どもを非常に脆弱にする女性による子育てと、家庭外の保育に完全に子育てを委ねるシステムのどちらかひとつを選ぶ社会に同意しないだろう。確かに、すべての子どもが平等に利用できるよう政府が補助する質のよい保育は、女性と子どもへの正義のために社会が用意すべき制度として重要なものであるが、これは問題の一部を解決するにすぎない。女性と男性が子どもたちのケアに平等にかかわり、ケアのための不払いの貢献と経済的支援の両方に平等に責任をもつというもっともな前提から出発するなら、小さい子どもがいる両性の労働者に対する仕事の要求は、再考されることになるだろう。これまでのように、すべての労働者には「彼の」子どもを育てる「誰か」が家にいるという幻想にしがみつくことはしない。

 平等に共有された親業を促進し奨励することは、かなり大きな変革を要求する。これは、(見せかけではなく)完全にジェンダー中立的な基盤を確立する職場の大改革を意味している。雇用者が法的に要求されるのは、セクシュアル・ハラスメントも含む性的差別を完全になくすことだけではない。ほとんどの労働者が、労働者でいるあいだ、親であるときも、年老いた両親などの家族の世話をしているときもあるという事実に積極的に対応していかなければならない。子どもたちは女性から産まれるにしても、彼らは両親に平等に育てられるし(育てられるべきだとわたしは強く主張する)、妊娠と出産の政策は子育てにかかわる政策のなかで特別なものであるべきだ。妊娠と出産は、本人がどれくらいの期間休暇を必要とするか否かにかかわらず、一時的な疾病 disabling condition とみなされるべきだし、雇用者はすべてのこのような働けない状況に対し、休暇を与えるよう義務づけられる。もちろん妊娠と出産は「疾病」以上のものであるが、働けない状況はひとりひとりの妊婦によって異なるということもあり、こうした目的のための休暇として扱われるべきであろう。疾病やその他の傷病に対する休暇を義務づけないで、人によって短期間で済んだり長い期間を必要としたりする妊娠・出産にのみ、8週間やそれ以上の休暇を義務づけるのは公平ではないように思われる。だからこそ、わたしたちの社会のように豊かな社会は、この両方に対応する必要がある。

 親業の平等な分担を促進するには、出産後の数か月の育児休暇は、母親と父親が同じ期間利用可能であるべきだ。職務、勤続年数、社会保障給付にかかわらず、すべての労働者は、子どもが1歳になるまでのあいだ短時間で働くことや、少なくとも7歳になるまでフレックスタイムで働いたり、労働時間を短縮する権利をもっている。同様に、健康に問題を抱えていたり、障害をもっている子どもの親は、より柔軟な労働時間で働くことができるべきだ。(研究職におけるテニュアや弁護士の共同事業のハードルのように)仕事の要求がもっとも大きくなるときと子育てのピークが一致するような専門職の場合には、仕事の要求を再構築し、子育てしているあいだの柔軟な働き方を保障しなければならない。大企業の雇用者には、乳幼児から小学校にあがる前までの子どものために、質のよい企業内保育所を確保することが求められる。すべての小さな子どもたちが平等に質のよい保育所を利用できるように、(富裕層に有利な税額控除ではない)政府の直接的な補助によって、質の高いケアを維持するコストと、余裕のない親が無理なく支払うことができるコストの差を埋め合わせることが求められる。(pp. 285-286)


 ジェンダーを最小化するために学校がすべきことも山のようにある。エイミー・ガットマンが述べているように、(小学校の教師の84%が女性である一方で、教育長の99%が男性であるという)権限の構造をとおして「学校は、男性が女性を支配し、女性が子どもたちを支配するというシステムを子どもたちに教育しており、ジェンダー化された社会の現実を単に反映しているだけでなく、再生産している」。ガットマンは、このような性別ステレオタイプは、子どもたちが自分の将来について合理的に考える際の「大きな障害」であるのだから、教師と教育長の性別の割合がより平等になるまで、これらの職の採用にあたっては性別が考慮されることが適切だと論じる。

 同様に、学校の重要な役割は、ジェンダーの政治を十分に理解できるようになるための教育コースを用意することにある。女性の経験や女性の著述をカリキュラムのなかに入れることは、それ自体として重要なのは確かであるが、これだけでは十分ではない。これらの政治的重要性は、カリキュラムへの異議申し立ての数々によって明らかにされてきた。しかし子どもたちは、現在の結婚の不平等、曖昧さ、不安定さや、職場の差別や性別分離、ジェンダーを前提にした人生の選択の結果として起こりうることについても、学ぶ必要がある。子どもたちに、彼/彼女らがたまたま属している性別によって決定されているものとして将来を描いてしまうことをやめさせなければならない。もちろん、多くの子どもたちは、個人的な経験から、伝統的な性別分業の破壊的な効果について「肝に銘じている」だろう。しかし彼/彼女らは必ずしもこの経験から、自分自身の将来の家族を違ったかたちでつくりあげるためにどうしたらいいのか、積極的なアイデアを手に入れるわけではない。(中略)最後に、学校は、子どもたちが安全に遊んだり、宿題をしたり、創造的な活動に参加できる質のよい放課後プログラムを用意する必要がある。

 これらすべての政策の実行は、賃金の獲得と私的な家族責任を両親が分担することを支え、子どもたちが、性的差異の重要性がほとんどなくなった未来にむかって成長することを促すだろう。幼児期から子ども時代全般にわたって、男性も平等に子育てに参加することは、これまで予想されてきたとおり、彼ら自身、妻やパートナー、子どもたちに大きな影響を与えるであろう。また女性は、経済的な依存によって脆弱になることはない。こうした政策は、多くの人々が抱いてきた、子どもを長時間保育所へ預けることに対する不安を軽減するだろう。片方の親が8時から4時まで働き、他の親は10時から6時まで働くとすれば、子どもが保育所にいる時間は(お昼寝時間を含め)6時間であり、他の時間はどちらかの親、もしくは両親といっしょに過ごすことができる。もし両方の親が6時間労働にできれば、もしくは週4日労働にできれば、必要な保育サービスはさらに短くなる。さらに企業内保育所があれば、育児休業が終わったあとにも、母親は子どもに授乳し続けることができる。(p. 287-288)


 ひとり親とその子どもたちの状況はより複雑である。しかしやはり、いくつかの理由で、性的差異の重要性をかなり最小化した社会では、より状況が改善されると思われる。第一に、一度も結婚していない女性と子どもたちについて考えてみよう。非婚の10代の妊娠は、かなりの程度意図しなかったものである。もし女の子たちがよりはっきりと自己主張できたり、自己防衛的に育てられ、自分の将来をまず第一に母親になるものととらえる傾向が少なくなれば、こうした妊娠は減るだろう。また、望まない妊娠は、性教育を受けるかどうか、避妊できるかどうかによってもかなりの程度減らすことができる。第二に、ジェンダーのない社会では、父親の責任の大きさによって、若い男性は、今より自分が親になる責任を十分に引き受けられるようになるまでは、不注意な性的行動の結果を引き起こさないよう気をつけるようになるだろう。デイヴィッド・エルウッドは、すべての子どもたちとシングルマザーに対し、出産時の父性を確立するための政策と、父親が支払うことができないときには政府が補助するための制度をつくり、子育ての全期間にわたって、父親が子育てに経済的に貢献することを強制的に求める政策の骨子を提案している。これらの提案は非常に公平で理に適ったものである。しかし、経済的支援の最低限のレベル(年に1500-2000ドル)は、十分なものではない。特に母親は、子どもたちを世話することと、彼女たちが働いているあいだの保育所への支払い(通常、最低限の支援額よりも高い)の両方が期待されているからである。

 第三に、一度も結婚していない女性は、質の高い保育に対する政府の補助と同じくらい、親であることに配慮した職場の構造によって、大きな利益を受けるだろう。男性と同じように、仕事上のキャリアが自分の将来にとって重要になることを期待して育ってきた女性が、将来性のない、低熟練の職に追いやられる可能性は減るだろうし、結婚しなくても親として経済的にやっていけるであろう。

 しかし多くのシングルの親は、出産時から非婚だったのではなく、結婚後の別離や離婚によるものである。ジェンダーによって構造化されていない社会では、彼女らの状況も大きく変わる。離婚率は変わらないままであっても(これは予測が不可能である)、最初から子育ての責任を平等に引き受けている離婚した父親たちが、今日の多くの父親のように、子どもをネグレクトしたり、面倒をみなかったり、経済的支援を怠ったりするということは考えにくい。離婚の後でも子どもたちには、積極的に子育てにかかわり、経済的に責任をもってくれる二人の働く親がいると期待することは理に適っている。これらの親たちは、賃労働を家族の労働を平等に分担しているのだから、彼/彼女らの収入は今日の多くの離婚した親の収入よりも平等なものであろう。たとえ彼/彼女らが完全に平等であっても、実際の養育権をもたない親も、ふたつの世帯の生活水準が同じになるぐらいまで、子育てへの貢献を要求されるべきである。これは今日離婚した両親のこどもたちが、世話も経済的支えも、子育てによって仕事を中断した母親だけに依存している状況とは大きく異なる。

 ジェンダー構造化された結婚は、(いまだある人びとに選ばれている点で)現在必要な制度をみなされるべきであるが、社会的に問題含みのものである。少なくとも子どもたちがいる場合には、多くの法的な要求が課される。もっとも重要なことは、性別分業が、完全であれ部分的であれどちらか一方が経済的に依存するものでなくなることだ。そのような依存は、両方のメンバーが、世帯の収入に対して平等な法的権限をもっていれば避けることができる。明らかでわかりやすいやり方は、雇用者が、賃労働者と不払いの家庭内サービスをすべて、もしくは大部分おこなっているパートナーに平等に給料支払い小切手を作成することである。もちろん多くのケースでは、カップルの実際の経済的やりくりを変えるものではない。これは単に、彼らがすでに同意していることーーすなわち、世帯収入は本当の意味でいっしょに稼いだものなのだから、きちんと分けるということーーを、法的に成文化するだけのことである。(中略)

 一方、ここで提案したように世帯の収入に対する夫婦間の権限を変えることによって、大きく変化するであろうカップルもいる。稼ぎ手や、より高い稼ぎのあるメンバーが直接的に権力を行使し、家計の重要な使い道についての協議を拒否し、収入を分けることをせず、収入のない、もしくは稼ぎの少ないメンバーに、彼女(ほとんどの場合妻である)と子どもたちが貧困に陥りたくなければ虐待を我慢する選択しかないと思わせ、彼女を心理的・物理的に虐待しているようなカップルには、大きな変化をもたらす。より多く稼いでいるメンバーが、現在の家族内の分業を維持するために間接的に稼ぎ手の権力を行使している場合にも変化をもたらすであろう。家庭内の権力のバランスに大きな変化をもたらすそのような例では、家庭内の労働を多く担っているメンバーは家族の幸福に十分貢献しており、賃労働を多く担っているメンバーと同じように、きちんと稼いでいるという法的・社会的認識をもたらすであろう。

 ここでわたしが提案しているのは、賃労働をしているメンバーが、家事をしているメンバーが、家事をしているメンバーがおこなったサービスに対して支払うということではない。個人的関係に金銭的関係を導入することは不適切である。わたしが言いたいのは、単に、伝統的・準伝統的婚姻の両方のメンバーが働いているのであるから、彼/彼女らのうち一方だけが賃金を支払われたり、他方より多く賃金を支払われる正当な理由はないということである。賃金の平等な分割は、現在の家庭内の不払い労働は賃労働と同様に重要だという事実を公的に承認することにつながるであろう。もしわたしたちがこれを信じないなら、ジェンダーのない結婚と子育てのモデルにあるように、賃労働と不払い労働の完全に平等な共有を主張すべきである。賃金の平等な分割が不払い労働の重要性の承認につながると信じるなら〔どちらかが家事労働をするといった〕ふたつの労働の偏った分業を、社会は正当に認めることができる。しかしそうした場合でも、この社会は金銭の稼得に非常に重きを置いていることを考えれば、給料は二人の人間が平等に稼いだものだという認識の重要性を、わたしたちは主張すべきである。ウォルツァーの言葉で言えば、これは、賃労働の領域における家族構成員の不平等が私的領域に侵入するのを防御することになる。

 この提案は、私的領域に不当に介入したり、家族生活に対して国家がこれまで以上に介入することを含意しないという点でも重要である。現在必要とされているような結婚と誕生の登録や、所得税申告書に依存〔扶養〕している人の数と名前を申告するといった程度のプライバシーへの介入しか求めない。さらにこの提案が家族への介入にみえるとすれば、唯一それが家族内に存在する権力関係を変えてしまうことによる。もしある人が仕事を遂行する能力が、子育てや他の方法で労働者の日常的生活を支えるメンバーが家庭にいることに依存しているのであれば、それぞれの貢献に対して両者に平等に支払うことは、片方だけに支払うことと同じ程度の介入でしかない。(pp. 291-294)


 わたしは、家族の権利と責任について基本的なふたつのモデルを提示してきた。これらのモデルが必要なのは、現在が、男性と女性が大きく変化し、ジェンダーをめぐって大きな見解の違いが生じている時代だからである。性別にかかわらず役割と責任を平等に分担する家族は、今日の典型的な家族よりも正義の原理に合致しているだろう。より伝統的な家族内の役割を引き受ける人びとがいる家族は、家族が招くリスクから結果として守られる。両方のケースにおいて、これらの変化によって正義は促進される。ただし、ふたつのうちジェンダーのない家族の方が、本書の冒頭で論じた3点において、より正義に適っていると言える。ジェンダーのない家族は第一に、女性にとって正義に適ったおり、第二に女性と両性の子どもの双方の平等な機会を保障するものであり、第三に正義に適った社会の市民を育成するためのより望ましい環境を作り出す。よってわたしたちは、現在ジェンダーによって脆弱にされている人を保護すると同時に、ジェンダーのない社会をつくる最善の努力をするべきである。(p. 296)


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スーザン・M・オーキン『正義、ジェンダー、家族』

正義・ジェンダー・家族





現代の英米圏における主流の正義論は、多分に専業主婦の妻をもつ既婚男性についての理論であった。(p. 178)


ロールズが提起した公正としての正義の理論によって、わたしたちはジェンダー問題に挑むための真に有望な議論の道筋を見出すことができた。それは、ロールズの議論から「家長」という前提を取り除くことである。しかし、そのためには、リベラルな思想が現在に至るまで長らく根源的なものと捉えてきた、ある種の二元論の問題点を暴き出すとともに、その詳細を明らかにしなければならない。すなわち、政治的生活と市場という「公的」な世界と、家族的生活と個人的関係という「私的」で家内的な世界を峻別する二元論である。この章でわたしは、真に人間性を備えた fully humanist 正義の理論は、ここでいう公私二元論についての徹底的な批判的検討を経ずには達成できないことを主張したい。このような作業を引き受けるにあたって、多くの専門分野にわたるここ20年のフェミニズム研究の成果がきわめて有用と思われる。キャロル・ペイトマンが言うように、「公私二元論は…、究極的には、フェミニズム運動が取り組んできた課題そのもの」(Pateman 1983)なのである。(pp. 178-179)


公私二元論は男女の不平等を生み出し強化する循環構造をみえにくくする点で誤解を与えやすい概念であるということを、四つの論点から主張していく。第一に、常に政治的なものの典型として理解されてきた権力が、家族生活にとって中心的な重要性をもっているということ。第二に、家内領域はそれ自体、政治的決定によって形づくられるものである以上、国家が家庭生活に介入するか否かが選択可能であるという発想がまったく意味をもたないということ。第三に、わたしたちがまさにその場所でジェンダー化された自己になるという意味で、家族は疑いようもなく政治的な存在であるということ。そして第四に、ジェンダー構造下の分業は、女性が他のすべての生活領域へと進出するのを妨げる現実的かつ心理的な障壁を作り出すということ。(p. 179)


 ウォールツァーの理論もアンガーの理論も、公私二元論とジェンダー構造への挑戦に先鞭をつけたにもかかわらず、さほど重要な成果を上げることができなかった。にもかかわらず重要なのは、双方の理論家が描いた平等主義的な社会の青写真にとって、現在の両性間の権力と責任、権利と役割の分配に根本的な疑問を投げかけ、その再編を訴えることが不可欠であり有効であったという点にある。政治学、法学、社会心理学、そして歴史学におけるフェミニスト理論は、この挑戦を長らく引き受けてきたのである。(p. 201)


 「個人的なことは政治的である」というスローガンは、公私二元論に対するフェミニスト的批判の中心的なメッセージである。それは、現代のほとんどのフェミニズムの中心をなす考え方である。19世紀から20世紀初頭にかけて、女性参政権の獲得と妻の法的劣位の解消を求めた彼女たちの多くは、男性による女性の政治的な支配と個人的な支配との関係に自覚的であった。にもかかわらず、1960年代に至るまで、女性が家族のなかで担う特別な役割について疑問を投げかけた者はほとんどいなかった。投票や教育機関における平等な権利を主張する一方で、多くの女性たちは、家族に深くかかわる女性が当然にそのケア責任を担うものという広く流布していた想定を、自然で避けられないものとして受け入れていた。(p. 201)


 個人的なことの政治性に関わるもっとも早い主張は、家族は女性の抑圧の根本的な原因であるから「破壊」されなければならないとする、1960年−70年代のフェミニストたちのラディカルな主張までさかのぼる。初期フェミニズムのこうした反家族的性格は、フェミニズムに反対する勢力のみならず、「保守」フェミニストや「バックラッシュ」フェミニストと呼ばれる陣営によって誇張され、利用されてきたと言える。そうした人びとは、フェミニズムの主張全体を攻撃したり、あるいは、自分たちに都合のよい部分を除くすべてを攻撃したりするために、特に家族の問題について騒ぎ立ててきた(Stacey 1986)。しかし、現代の多くのフェミニストは、ジェンダー構造化された特定の家族形態を批判の俎上に載せてきたものの、あらゆる家族形態を攻撃してきたわけではない。「家族」という語は、あらゆる親密性によってつながり集まった人びとを包摂するよう定義されるべきとして、フェミニストの多くが、はっきりと同性結婚を支持しているし、ほとんどのフェミニストが仕事と家庭という二重の負担か家族を諦めるという二者択一の間で選択を迫られることを拒否している。わたしたちは家族という制度を諦めることを拒否するし、両性の分業を自然で変えられないものとして受け入れることを拒否する。さらに、ジェンダーが社会的構築であることが理解されるにつれて、フェミニストは家族集団や家族実践がいかに変革の可能性に開かれているかをますます認識するようになってきた。家族は、決してそのジェンダー構造と不可避に結びつけられているわけではないが、こうした考えが疑問に付され、新しい家族のかたちや伝統的でない分業のあり方が、単に認識されるだけでなく推奨されるようにならない限りは、家内的な領域においても公的な領域においても女性の平等を望むことはできないだろう。(pp. 201-202)


 セクシュアリティ、家事、子どものケア、そして家族生活にかかわる個人的な領域の政治性は、ほとんどのフェミニズム思想の基礎に位置するようになった。異なる政治的立場から、多様な学問分野のフェミニストたちは、女性の家庭での役割と職場における女性の分離と不平等のあいだの、また、ジェンダー化された家族のなかで社会化されることと女性の抑圧にかかわる心理学的な側面とのあいだの、密接で複雑な関係を明らかにするとともに、分析をすすめてきた。わたしたちは、長らくほとんどすべての政治理論を支えてきた想定に対して、絶えず強烈な疑問を投げかけて続けてきた。それはすなわち、家族的・個人的生活にかかわる領域は、その他の社会的領域のすべてからすっかり切り離されていると考えることは、まったく正当であり議論の余地さえないという想定である。

 しかしながら(中略)従来のフェミニストによる議論は、現代の多くの政治理論家が語る正義と十分に接続されてこなかった。以下でわたしは、個人的生活と家族の本質的な政治性に関するフェミニズムの中心的な主張について議論していくことで、家庭生活は国家と法制度によって正義に適ったものになり、その正義を強固なものにできるという主張を展開したい。(pp. 203)


家族と個人の領域はその他の領域と峻別でき、国家は家内領域へと介入することを控えることができるし、またそうすべきであり、それゆえ政治理論は正当にこの点を議論の外に置くことができるという、昔から信じられいまもなお生き残っている想定を、現代のフェミニズムは厳しく批判し続けている。これに対して、公私二元論を批判することと再構築することの双方が、フェミニズムが未来に向けて取り組むべき困難な課題なのである。(p. 205-206)


 ここでわたしは、伝統的な公私二元論に挑戦するフェミニストの多くが何を主張していないかについて指摘しておかなければならない。というのも、実際、少数のフェミニストはこれを主張しているからである。二元論を批判することは、必ずしも人間の生活におけるプライバシーの価値やその概念自体の有用性を否定するものではない。また、公的な領域と私的な領域のあいだに何ら意味のある境界を引くことができないと主張するものでもない。わたし自身も含めた多くのフェミニストは、個人的なことと政治的なことを単純に、ないし全面的に同一視しようとしているわけではないのである。(p. 206)



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