2016年11月15日

セクシュアリティ、ミシェル・フーコー

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 ミシェル・フーコーの『性の歴史』は画期的で、現代の理論家のセクシュアリティ認識の方法に革命を起こした。フーコーによると、「同性愛」を「アイデンティティ」として個人に適用するようになったのはかなり最近の発明で、1869年に同性愛と異性愛という用語がようやく登場した後のことである。

 フーコーはこう述べる。かつて性倒錯はだれもが実行したり処罰されたりする可能性のある行為だったが、19世紀後半に顕著な変化が起こった。「同性愛は人物になり経歴になり症例になり、そして幼年時代になった。加えてある種の生活の型、性の形式、身体の形態となって、無分別な身体構造とおそらく謎に包まれた生理機能を備えたものになった。人を総体として構成するもののうち、セクシュアリティの影響を被らないものはなくなった」(Foucault 1979: 43=1986: 55)。フーコーがここで示唆するのは、性の実践が人を定義して、人の境界を画定するようになったことである。たとえば男色行為(ソドミー)についての古代の法規とは正反対である。

 19世紀から20世紀にかけて、性科学(セクソロジー)(性の実践についての科学的研究で、とくに「逸脱」に注目する)と精神分析への関心が急激に広まった。個人の性的な好みや偏愛についての情報が蓄積され、同時にその情報はセクシュアリティの統制や、それぞれの性行為にどのような性格類型がともなうかという予測にも使われた。より多くの人びとが不安や神経症について考察するように、そして欲望について語るように仕向けられ、性的欲望は自己についての深遠な何かを表しているという見方がしだいに一般化した。「セクシュアリティ」は、まるで人間の生の神秘の核心であるかのように考えられるようになった。

 フーコーの研究によると、このようにセクシュアリティが真の自己に強く結びつけられるようになったのは、性(セックス)をめぐる言説(ディスコース)の増殖による1つの効果であり、そのため科学者たちはますます謎めいた呪物崇拝(フェティッシュ)や欲望についての情報収集に駆り立てられていった。また、フーコーその他の理論家たちの示すところでは、逸脱の範囲が確定されるに従って、規範的なセクシュアリティは生殖の要請、すなわち「性的欲望には性的差異が欠かせない」(Jackson in Jackson and Jones eds 1998: 139)という観念にとらわれるようになった。生殖とのこのような関連づけから、あらゆる方法で自然に訴えることが自明視され、何を正常とするかが決められていった。生殖を促進するという理由から、異性愛セックスにおいては男性器の挿入こそ決定因と見なされ、挿入こそ「正常な」性的反応を決定すると(それぞれの異性愛者が個人的にどのような性の実践を好むかに関係なく)考えられるようになった。

 このように自然に訴えるのは、フーコーによると、「生殖の厳格な秩序に従わない形態のセクシュアリティを、現実から追放しようとする試みである。生産的でない行為を拒絶し、気ままな快楽を追放し、生殖を目的としない性行為を抑えるかなくしてしまおうとする試みである」(Foucault 1979: 36=1986: 47)。フーコーの見解では、性的反応の意味を最小限にまで切り詰めようとするこのような試み自体、その意味が実際には社会的に構築されることを示す、さらなる証拠である。



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2016年10月31日

『争点・フェミニズム』「男という問題」(2)

争点・フェミニズム




 男らしさが社会的に作られたものであるという主張は、男らしさが時代によって、またそれぞれの社会によって異なるものであるという認識へと、ほぼ必然的につながっていく。一般的な男らしさの形態について述べることに意義はあるが、それらは競合しないものではなく、単一的な経験でもないということは現在では広く認識されている。男であることの意味や経験は同性愛者と異性愛者の間で、黒人男性と白人男性の間で、裕福な男性と貧しい男性との間で、そして病気の男性と健康な男性との間では明らかな違いがある(それぞれの集団の成員は流動的なものであり相交わるものもあるが)。そして、それぞれの集団のメンバーの中においても、権力や身体的な強さといった主要な男らしさの属性を得られるかどうかの事情が異なることによって、抑圧を経験しているものもいるだろう。ロバート・コンネルが指摘したように、同性愛の男性に対する抑圧は、軟弱だったり控えめだったりする異性愛の男性に対しても連鎖的に効果を及ぼす。同時に、男らしさについてのもっとも一般的なひとつの理想形というものも存在してこなかった。たとえば、長らく「真の男」とは、積極的な性的略奪者を指すと同時に、女性や他の男性に対して献身的で、保護者的で、「紳士的」な人物を意味する言葉でありつづけてきた。(p. 276)


 今日、フェミニズムによる批判は、急速な社会変化と結びついて、伝統的な想定を崩壊させようとしているために、男らしさについてのひとつの明白なモデルの欠如は、特に顕著である。そのうえ一家の稼ぎ手としての役割と男らしさとの結びつきは、男性の失業や共働き家族、母子家庭などが着実に増加しつつある社会において意味をもたない。異性愛の男性は、怖がる処女たちに性の手ほどきをするべきであるという考え方もまた、若い男たちが性的な自信や知識をもつ強い女性のイメージと対峙せざるをえない社会、またいかなる性的関心の表現もハラスメントや時には強姦として解釈されかねない社会においては、維持することは難しい。結果はジェンダー役割や行動の不明確さという一般的風潮となってあらわれてきた。(中略)

 しかし、肯定できるような方法で変わっていく男性もいる。そして今日の社会は、積極的な父親業や感情表現を含むような男らしさを求めている。その結果として「「男らしさの多様性」が、新たな男性のあり方の受容可能な形として姿をあらわしつつある」。男らしさの多様性は、男性であることが非抑圧的となる可能性を開く。(pp. 276-277)



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『争点・フェミニズム』「男という問題」(1)

争点・フェミニズム




 1970年代初頭のフェミニズム論争を特徴づけたさまざまな理論的出発点は、実際的な経験や、今も続く政治理論上の発展にともなって強化されてきた。今日、「男という問題」について四つの主要な相互連関するテーマを見出すことができる。これは、それぞれの理論的な出発点を声、フェミニズム思想の政治的な差異の広がりを横断し、賛同を得るものである。一つめは、女性が男性という規範によってはかられ、男性の欲求によって社会が組織される状況を変えることが必要であるとの認識の広まりである。二つめに、フェミニズムの中には、女らしさが産出される過程を明らかにしそれを変革することから、男らしさのそれを問題にすることへと移行する動きがある。三つめに、男らしさが社会的につくられたものであるという認識は、フェミニストが女性間の違いを認識しなければならないように、男性間の違いもまた認識しなければならないという見解と関連する。このことは単に「親切な男性」と「性差別的な豚」が存在するとか、男性が階級や人種によって区別されるということを意味するものでもない。しゃかいではどんな時代でも男らしさのモデルが存在しているはずであり、一般的な男らしさモデルが、ある男性たちにとっては抑圧的に感じられるだろうということを意味しているのである。四つめのテーマは、三つめのテーマをふまえて、今度は非抑圧的な男らしさを受け入れ強化する道を開き、ジェンダー化された社会の二元的区分を越えようとすることである。(P. 269-270)


男性の行動こそが変わらねばならないという考えは、北欧の国々で最も進んでおり、1960年代後半以降の平等政策では、男性の家庭内役割を増やすことの必要性が前提とされている。教育プログラムはできるだけ幼い頃からジェンダー・ステレオタイプを疑うように綿密に計画されている。(中略)

 しかし、多くの男性は納得していないようである。スカンジナヴィア諸国においても、家事行動における変化は遅々としたものであったし、男性政治家たちは、家族福祉における平等責任に乗り気ではなかった。このことは、思慮深いパートナーや政治家であっても、自分たち自身が女性が直面している問題の一部であることを認識したがらないという事実を表している。(PP. 271-272)


 1970年代以降、フェミニズムに影響された男たちによって、男であることがどういうことかを問題とすべきであると認識されるようになってきた。そしてこのことによって、男性だけの集団の結成だけでなく、男性による男性自身の性についての学術的な著作が増加した。これらの著作は、社会が男性によって支配されているものであり、男たちは女たちが直面している問題の一部分であるということを認めている。ヴィクトール・サイドラーは、男性のフェミニズム支持者たちにとって、女性の抑圧に焦点をあてることは容易であると言う。なぜなら、虐げられる女性を救う白馬に乗った王子様という男性の原型的な幻想に訴えかけるからである。しかし、ジェンダー間の平等が達成されるのならば、男たちは自分自身にも焦点をあて、新たな行動様式を学ばねばならないと彼は言う。

 サイドラーが所属する男性だけの生活集団では、男たち自身による「気づき」を「カミングアウト」と評する。ジェンダーは、女だけではなく男にもあてはまるというこのような認識は、政治的および社会的行動についての伝統的な理解とは根本的に異なった視野を提供する。男性と一般的な人々を区別することの潜在的な重要性は、犯罪行動や反社会的な行動との関連で明らかになる。「暴徒」「暴力的な未成年」「麻薬常用者」「性犯罪者」「児童虐待者」などについての政治やメディア上での伝統的な議論は、これらが圧倒的に男子や男性であることを隠してきた。しかし、ジェンダーについての認識をもてば、多くの反社会的行動を男性の行動の問題とするだけではなく、反社会的な行動が「正常な男らしさのかたち」と結びつく道筋を明らかにすることが可能となるのである。(PP. 273-274)


 児童への性的虐待についての近年の著作でも、児童虐待を男性の生来の属性や少数の逸脱者の病的な行動としてではなく、男らしさという支配的な形態の所産として理解すべきであると述べる(確かに女性が虐待者となる場合もあるが、たいていがまずは男性による虐待が問題とされるべきであろう)。この観点からすると、問題は「正常な」男らしさにおける暴力の役割であり、男性の性的欲求が、権力と身体的に弱い者や幼い者を欲望の対象とすることを結びつけている点にある。それゆえ私たちは、「正常な」男らしい行動や規範を問題とすることなしに、虐待の問題に取り組むことはできないのである(Hearn, 1988)。


もしキャンベルやシーガルが正しければ、これらの暴力は黒人や労働者階級の文化の所産ではなく、「正常な」男らしさの価値によるものであり、それは女たちの人生機会やさまざまな経験にだけでなく、社会全体に対してもダメージを与えてきたことになる。キャンベルやシーガルは、これらの価値が生物学的男性性にもとづいているとか、男性の反社会的な行動は彼らの遺伝子の避けがたい産物であるとは考えていない。それゆえ課題となるのは男らしさを崩壊させ変革するために、それが構築される複雑な心理的、文化的、社会的過程を明らかにすることである。それらの変革は個々の行動よりもずっと深いレベルのものであり、社会のあらゆる次元における支配関係やジェンダー間のヒエラルキーの変革と深くかかわりあうことになるだろう。(pp. 275)


ラベル:フェミニズム
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