2016年11月15日

セクシュアリティ、ポルノ論争

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 1982年にニューヨークのバーナード大学で「学者とフェミニスト––セクシュアリティの政治に向けて」という会議が開催されたが、この会議はポルノグラフィの問題で激しく衝突し、最後には崩壊してしまったと伝えられている。そもそもこの会議が開催されたのは、主催者の1人であるキャロル・ヴァンスが、1980年代(とくにアメリカの)中絶法改正や過度の「寛容さ」へのバックラッシュの高まりを感じているからだった。強力な新右翼の台頭とともに、1960年代以降のフェミニズムと急進思想は道徳的退廃に直接の責任があると見なされた。性の実践の「無法者(アウトロー)」たち、つまりゲイ、レズビアン、性的に活発な異性愛女性、10代の若者が新たに非難されたり、エイズはゲイたち(アメリカとヨーロッパでウィルス感染率の高かった最初のグループ)への道徳的応報だと決めつけられたのだ。そしてフェミニストによる大がかりな反ポルノグラフィ運動が、このバックラッシュに加勢することになった。これは多くのフェミニストにとって皮肉な事態だった。「反ポルノ派のフェミニストたちに言わせると、ポルノこそ女たちを抑圧する一番の動力、男たちを社会化する主要因、女性に対する暴力の主要な手先だった」(Vance ed. 1992: xix)。女性のセクシュアリティの探求は、そのためにいっそう困難になった。



 前述のバーナード会議では、ポルノをめぐる論争の際にもう1つ生じたことがあった。フェミニズムの政治的良心として脱性化されたレズビアン・イメージが拒絶され、セックス肯定で検閲反対のレズビアンたちは、性的アイデンティティの多様性のすべてを認めよと主張したのである。対立は必至であり、シーラ・ジェフリーなどのレズビアン・フェミニストは、特定のレズビアン・セクシュリティのモデルに固執した(セックス肯定派のレズビアンからは、これはしばしば「ヴァニラ」レズビアンと呼ばれた)。しかしそのほかのレズビアン・フェミニストは、もしセクシュアリティについて社会構築主義者の見方を採用するならば、レズビアンに真正なセックスがあるという主張はだとうだろうかと疑問を出した。

 ジェフリーズにとって、そうした意見は1994年のThe Lesbian Heresy『異端のレズビアン』の書名が示すように、「異端」にほかならない。同書のなかで、SMや挿入をともなう性行為がレズビアンのなかでますます幅をきかせるようになってきたと述べつつ、ジェフリーズは言う。「新しい世代のレズビアンたちは、ゲイ男性の文化に見られる価値観や実践を喜んで取り入れている。自分もゲイ男性だったらよかったのにと、すすんで認めるレズビアンもいる」(Jeffreys 1994: 143)。

 
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セクシュアリティの二重基準

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最近では、二重基準という概念はとりわけ性の文化におけるインフォーマルな行動規範や規則の分析と結びつけられている。欧米社会は社会変動を経て、セクシュアリティも以前より自由化されたにもかかわらず、セクシュアリティを統御する規範や規則については男女でいまなお著しい差異があると社会学者たちは指摘する(Hawkes 1996)。セクシュアリティに二重基準があるということは、女性であれば不適切だと社会的に非難を浴びるような性行動でも、男性であれば是認されるばかりか、称賛まで受けるかもしれないということだ。

 セクシュアリティに二重基準が存在することについては、数多くの証拠がある。たとえばイギリスのある代表的な全国調査において、過去に交際したことのある異性愛パートナーの人数について尋ねた際に、男性のあげた人数は女性よりも多かった。この結果は、男性の活発な性行動は許容されるのに対して、複数のセックス・パートナーと交際したことのある女性ははるかに否定的に見られる傾向を反映しているという。この調査では、行きずりのセックスについて男女で見解が大きく異なっていることもわかった。「一夜限りの関係」が良くないことだと回答した女性は63%だが、同じ回答は男性では36%にすぎなかった(Wellings et al. 1994)。

 現在、イギリスでは性解放から数十年が経過し、伝統的な性道徳も影響を受けたと想定されるのだが、若者のセクシュアリティについての研究では、性の二重基準の根強さが判明している。リーズ(Lees 1989)の調査では、若者たちの性の文化においても、性的評判に二重基準が存在していることが明らかになった。「性的モラルについて噂を立てられると、少女の評判は壊滅的になる。しかし少年の場合、性的な手柄があれば評判が上がるのが普通だ」(Lees 1989: 19)。「だらしない女 slag」「ふしだらな女 tart」のような語は、少女のセクシュアリティを社会的に規制し統制するための重要な手段である。リーズによれば、社会的評判にかかわるこのような言い回しは少女にだけ適用され、少年向けの同様のレッテルは存在しない。少女たちは、「だらしない」「ふしだら」などのレッテルを貼られないように、自分のセクシュアリティ、たとえば着こなし、少年たちとの交際、性体験の回数や頻度などをつねに自分で監視し、チェックしていなければならない。

 ホランドほかの調査(Holland et al. 1996)においても、若い男性と女性では似通った性行動に対して、性的評判が異なることが明らかになった。ある若い女性はインタビューに答えてこう語った。「私たちがいろんな相手と寝るとだらしないと言われるけれど、男が同じことをするとラッキーだったね、と言われるのよ」(Hokkand et al. 1996: 242)。調査結果をもとに、ホランドたちは、若い女性も若い男性も、男性支配の異性愛の規則に合わせてみずからのセクシュアリティを構築していると論じている。若い女性たちが自分の性的評判を守り、経験豊富(プロミスキュアス)というレッテルを貼られないように努めねばならないのに対して、若い男性たちは同性の仲間内での性的な名声を高めるために、評判が嘘ではないと示してみせなければならない。





ラベル:フェミニズム
posted by R_Partner at 16:30| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

セクシュアリティ

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 ジョン・ギャノンとウィリアム・サイモンは、ミシェル・フーコーと同様、セクシュアリティの意味は社会的に生成されると強調し、とくに身体があらゆる種類の本質的な意味に染められることに注目する。(中略)

 ギャノンとサイモンによると、フロイトとフロイト派精神分析は、身体構造(アナトミー)は宿命であるという発想からうかがえるように、身体と自然の関連性を強調しすぎている。私たちが身体に付与する意味は、時代や文化によって異なり、身体の露出や接触に対するタブーも変化する。また、性科学者たちも性行為ばかりに目を向けすぎ、性行為の社会的意義の変化についてはほとんど考慮にいれていない。フーコーと同じようにギャノンとサイモンが主張しているのは、性行為とは社会的・文化的設定があってはじめて意味をなすものであり、性行為が合法化不法か、同性愛か異性愛かは、その設定しだいなのである。


 現代フェミニズムの緊張の1つは、男女間の異性愛セックスがどのように家父長制の権力関係の影響下にあるかを分析しつつ、しかし同時に女たちの能動的な生の活力としてセックスを捉えようとしたことにあった。こうした朝鮮は、1960年代以降のリバタリアン思想や、いわゆる「性革命」の出現という文脈に照らしてみる必要がある。異性愛や同性愛や欲望の議論がオープンになり、性の健康を実現し性についての無知を一掃することが、現実の目標となったのである。このような枠組みのもとで、初期の第二波フェミニストは、非難を受けない性行動の権利を要求し、女性を欲望の客体ではなく主体として捉える方法を模索しはじめた。しかし残念なことに、異性愛について語ること自体がしだいに躊躇されるようになり、家父長制の言語から解放されて欲望を表現する新たな方法を見いだそうとする女たちの意思は背後に退き、やがて覆い隠されてしまった。

 女たちにとって、異性愛はこれからも妊娠の不安や、起こりうる結末にいかに対処するかにつながっていくだろう。おそらくフェミニストたちは避妊と妊娠中絶をめぐる論争に集中しすぎて、自分たちの言葉で欲望を語りうる、性の将来の想像をおろそかにしてしまった。初期の女性解放運動ではセクシュアリティについてさまざまな議論が交わされ、重要な文書も数多く記されたのだが、欲望を語るという問題は未解決のまま残されたのである。

 アン・コートの「膣オーガズムの神話」(Koedt 1968=1971)は重要なパンフレットで、そのコピーはアメリカ、ヨーロッパを超えて何千部も出回った。コートは、男性器の挿入の優越性はまやかしだと主張し、女性の性的興奮の中心はクリトリスにあると宣言した。その発表当初から、論者たちはコートの主張は行きすぎである、膣には事実上まったく感覚がないという彼女の主張は不正確であると批判してきた。これらの批判はたしかに正しいが、コートが女性の性的反応についてのフロイト派の概念を脱中心化する意図をもっていたことを、忘れてはならない。フロイト派の概念は、突きつめれば、女性は消極的で受動的、男性は行動的で略奪的と見なすものだった。



ラベル:フェミニズム
posted by R_Partner at 16:12| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする