2016年12月01日

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』バウマン、恒常性の危機

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




バウマンは、恒常性の危機について、次のような警告をしている。

 バウマンによれば、近代社会の基礎として、世界内存在の近代的形態を形成した行動・態度は、充足の先送りであった。そして一方で資本の蓄積、他方で労働倫理の拡散と確立という、重要な近代的革新が可能になったとウェーバーは述べた。

 しかし、労働倫理が先送りを永遠に続けようと圧力をかけるのに対し、現在、消費の美学は先送りを中断させようと圧力をかける。そして、消費の美学の勝利により、現在、欲望と充足の距離は恍惚の一瞬へと短縮されつつある。ついには、先送りを完全にやめたいという欲望へと移行しつつある。こうなればフロイトのいう「死の欲動」に近づいていくとバウマンは述べる。


 近代史において、先延ばしに戦いを挑んだこうした文化は希である。そこには、距離を置くこと、思索すること、連続性、伝統といったもの−−独哲学者ハイデガーが現存在の形態であるとしていた、「反復」が存在する余地はないとバウマンは指摘する。

 バウマンは伝統的秩序のもとでは、労働は必要性のシステムと結合しており、必要性ということは、良き生活を送るということの重要部分を占めていたという。これに対し工業製造的秩序の時代になると、必要性にとって変わるのは利害となる。善とか善き生活という観念をもつ使用価値に代わり、それらを欠き、脱埋め込み化され、集合的な選好リスト(皆が何を好きで欲しいと思うかのリスト)を通してものに付与される抽象的価値である交換価値(要するに何が売れているかが何を必要とするかに代替される)が優勢となる。それゆえ、今生産されているものはほとんどゴミ屑だとバウマンやラッシュはいう。



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2016年11月16日

ポルノグラフィ(2)

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 ポルノグラフィに関してのフェミニストたちの意見の食い違いは、近い将来に解決されそうにはない。しかし、今や相違と同様に合意のある部分がどこなのかを見定めることは可能だし、議論の水準を解きほぐすことで、フェミニストが直面している政治的選択を明確にすることも可能である。

 まずは出発点として、現在ではたいていのフェミニストが、セクシュアリティは単に個人の嗜好の問題ではなく、より広い社会的問題と結びついていることに同意することを考えよう。また、もしポルノグラフィがどんなやり方であれ女性の抑圧に加担しているのであれば反対されるべきだ、ということにも同意できるであろう。このポルノグラフィへの反対は、たとえポルノグラフィが唯一の、そして主たる[女性]抑圧の原因でなかったとしても正当化される。フェミニストが積極的にポルノグラフィへの反対運動を行ないたいか否かは、ポルノグラフィの抑圧的な役割をどう評価するか、そうした役割への反証からどのように説得されるか、そしてポルノグラフィが女性に潜在的な害と同時に利得をもたらすと考えるか否か、にかかってくることだろう。


 ポルノグラフィは多かれ少なかれ女性の抑圧にかかわりがあると認める多くのフェミニストたちも、ではポルノグラフィをどのように否定していくかということについては意見が分かれることだろう。解決手段を法制化に求め、マッキノン=ドウォーキンのモデルに強く影響される人々もいる。だが彼女らの示すモデルは法律にではなく女性に力を与えることを意図していると主張されているにもかかわらず、多くのフェミニストは家父長的な法システムを信頼するには気がすすまないままでいることだろう。またそうしたフェミニストは、右翼の道徳的保守派と同盟関係に入ってしまうことに対しては深い疑念を抱いていると思われる。というのも道徳的保守派の人々は、法律を反フェミニズム的かつ抑圧的な目的に利用するかもしれないからだ。ポルノグラフィを検閲することへの懸念も、水ももらさぬポルノグラフィの法的定義をつくりだすという問題とずっと結びつけられていくだろう。そしてこのはっきりとしたポルノグラフィの法的定義は、返す刀で、従属的もしくは抑圧的なものは何から構成されるのかについてのフェミニスト間の不一致とも結びついていきそうだ。


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検閲反対派の主張

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 国家が干渉することに反対し、自由な表現をおこなう個人の権利を支持するリベラリズムの議論は、反検閲の問題に関しては明確な立脚点をもっている。リベラリズムの立場からの古典的な主張は、19世紀の哲学者J・S・ミルの、著名な『自由論』(1991、原著 1861)に示されている。これによると、社会が個人の自由を制限してよいのは、他者に危害を与えることを避ける場合のみであり、意見の表明や行為は、それが他者によって不快だと判断されただけでは違法とされえないのである。というのも、もし自由な言論や行為を他者が不快と思うだけで制限すれば、それは個人の自由についての堪え難い制約であるばかりか、人類の知識と進歩に対する障害ともなるからだ。今日、言論の自由への信仰は特に米国で強く続いている。それというのも米国には、人種的憎悪を誘発するような言動を禁じる英国の制定法のようなものがないからである。そうしたわけで米国の多くの人々は、自国のリベラル・フェミニストであるネイディーン・ストローセンが述べるように、現行の猥褻法と、フェミニストの要求するようなさらに厳しい制限の双方ともが、言論の自由を保障する憲法修正第1条の受容し難い違反である、とする説に賛成する(Strossen, 1996)。

 反検閲の立場をとる他の多くのフェミニストたちと同様、ストローセンは以下のように述べる。すなわち、性をあからさまに表現したものを自由に見聞きできるということは、女性に害を与えるどころか、情報や表現や選択の歓迎すべき源泉があるということを示しているのだ。さらにストローセンは、検閲の増加はどんな形であれ、1950年代のような性的無知と抑圧へと戻る兆候だとも言う。ストローセンによれば、女性たちが必要としているのは、検閲の厳格化より緩和であり、女性独自のエロチカを作り出す手段として開かれた議論を行うことであり、女性のセクシュアリティについて保持されている支配的なイメージを闘うことである。またストローゼンは、ポルノグラフィは男性の性的なニーズのためのはけ口を用意しているのであり、暴力的なものも、嗜好的な幻想が危険なく表現されえるような安全弁のかわりになっているのだとも言う。この視角からだと、ポルノグラフィは男性のセクシュアリティと性的虐待の危険から女性を積極的に保護するものとなる。


だが検閲に反対する人々がみな、ポルノグラフィは女性に利益がある、とするストローセンの考え方に賛成しているわけではない。たとえば英国のフェミニスト、リン・シーガルは、以下のように述べている。「ポルノグラフィはたいていの女性たちを精神的に苦しめるし、私はいつも苦痛を感じる。」そしてシーガルは、「ポルノグラフィが性差別的かつ人間性を損なうような女性のイメージをもてはやすのであれば、フェミニストはポルノグラフィを正当なる攻撃の標的にする」ことにも賛成している(Segal, 1987, pp. 108, 112)。しかしシーガルは、「ポルノグラフィが他の表象の形式、たとえばロマンティック小説のようなものより危険であるとは考えていない。「ポルノグラフィに見出されるのはまたしても、強い男、権力を持つ男、男根崇拝の男に対する、延々と続く崇め奉りなのだ」(Segal, 1987, pp. 113)。またシーガルは、性表現をさせなければ女性の利益になりうるとか、女性への抑圧はセクシュアリティに関することに還元されうるなどとは信じていない。このようにシーガルは、より開かれた、フェミニスト主導による性についての議論が必要である、とするストローセンと同じような主張をする一方で、ポルノグラフィとそれがもつ効果に関しての分析は、女性の経済的搾取および女性が被害を蒙りやすいという事実と切り離せない、とも主張する。


多くのフェミニストは、この検閲という問題には、これを支持する主な人々が示す確信よりも複雑なものがあると見ている。そしてフェミニストの中には、立場を決定できないでいたり、落ち着きの悪い妥協点にとらわれてしまっていると感じている人々もいる。このような迷っているフェミニストの多くはポルノグラフィを嫌悪しており、ポルノグラフィが女性に害を及ぼすとも思っている。しかし、ポルノグラフィは女性の抑圧の主たる原因であるというよりもむしろその徴しであると考えてもいる。またポルノグラフィの入手が制限されるとよいと思う一方で、男性の手中にある法システムをさらに強化してしまったり、広くエロティックなものや性教育にかかわるものまでをも検閲させたがっているような右翼の道徳主義者と手を結ぶことになったり、というような実践上の効果を懸念してもいる。また、ポルノグラフィと性暴力との結びつきはいまだ証明されていない、もしくは性暴力の程度が過大視されている、と思っているフェミニストも存在する。そう考える女性たちは、ポルノグラフィに反対する運動家たちをピューリタン的禁欲と見なし、運動家たちのことを、どんな形であっても性をあらわに表現することや性の快楽には反対し、人生の外側、具体的には性的関係以外のところに楽しみを見つけたがっている人々なのだ、と考える。



ラベル:フェミニズム
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