2016年12月01日

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




 今、社会に隆盛しているのは、アディクション(アルコール依存症などの中毒症状)と鬱である。これらも他者の不在によって起こっている病である。

 アディクションでは、他者を忌避しているので、他者と関係する機制としての欲望を忌避している。それゆえ「欲望の対象」ではない「要求の対象」(象徴的なレベルで他者や対象が求められているのではなく、欲求を常に満たしてくれるそれ以前の現実の他者としてのレベル)として、アルコールやギャンブルが求められている。とはいえ「要求の対象」なので、現実のタバコやお酒が欲しいのではなく(「欲求の対象」ではない)、それとつながり、しかも欲望を介さない(他者が怖いので欲望は不可能)幻想の他者(自分の思いのままになってくれる他者)が求められているのである。


 鬱でも、重度の場合、他者と対象関係が排除されている。鬱では、直接対象が内化され、対象選択以前の同一化が行われているとされる。通常、他者や外界と関係するとき、私たちは、自他の区別を行った上で対象にエネルギーを向け関係していくが、対象選択以前というのは、自他の区別が曖昧なまま他者をのみこんでいくことを指している。


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樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』ニューエイジ

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




 通常、宗教は、退行(抑圧が解かれ子どものような状態へ帰ること)によって共同性を調達し、頑張らなくてもそのままでいいと存在を肯定する。

 そして、退行状態は危険なので、教祖や教団という社会的枠組みがこれを管理し、これらの枠組みに自分を委ねる中で自己管理もなされる。そういう意味で、自分の理想は他者に委ねられている。

 しかし、ニューエイジにおいては強力な他者への帰依がなく、自分の中の無意識や自分の中の無限の力が信じられており、そういった無意識を通じて辛うじて他者とつながる。自分の中の他者性が「大いなる他者」とつながっている。そこでの他者とのつながりは観念的で脆弱である。


 ニューエイジは、「宗教の心理学化」によって生まれており「心理療法的宗教」とも呼ばれる。

 心理療法が宗教化するということは、心理療法の側から見れば、心理療法がやるような徹底的な主体の再帰化をどこかで止めてしまうということを意味する。宗教ではないカウンセリングなら、クライアントはどこかで自分の弱さや現実と向き合わなくてはならない。しかし宗教化した心理療法では、問題や力は「気」のような外側の力に委ねられてしまうので、どこかで都合のいい解釈に逃げることができる。


ニューエイジは、再帰性が高く、組織や拘束を嫌う現代の人々にぴったりの宗教である。それは心理療法の手法を取り入れて、自己の無意識において発見された他者、「大いなる他者」を通じて恒常性を維持している。それは宗教である限りにおいて、心理療法のもつ幻想破壊力を封じている。しかしこれまで宗教が制度として担ってきた、非日常性の隔離という機能は弱い。


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樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




ギデンズの「経験の隔離」とは、ラカンの「現実界」を遠ざけておくことと対応している。

 私たちは、明日も明後日も自分が同じように元気で生きるだろうと漠然と信じている。しかし、交通事故に遭った人がそれは幻想でしかなかったことをよく知っているように、死という「現実界」はいつでもどこでも襲ってくる可能性をもっている。

 この恐れに常に苦しんでいるのが統合失調症やパラノイアの人たちである。いつどこで死や災害が襲うかもしれないのに、何となくそれは来ないと信じている私たちの方が能天気で幻想の中にいるのである。そしてそれこそが恒常性ということの中身であり、私たちが他者や世界を漠然と信じていることに呼応する。

 しかしここで、イマジナリーとしての無根拠な信頼がなければ、私たちは生の不安定さに押しつぶされそうになるが、それは現実にある死を見ないということではない。文化は、先述したように死や痛みや外傷を積極的に表象師、そのことでむしろ私たちの心の痛みを緩和してきた。死を見ないこと、排除を持続することは一方で不安を喚起するのであり、私たちはむしろこの不安の正体を勇気をもって見ることができる(他者への信頼、他者との不安の共有を支えに)方法を確立してきたのである。

 これに対し、ギデンズは、こうした現実を遠ざけるあり方について、近代以降、そして現代、死の排除が強まっていることを指摘する。近代医学における死の排除、日常生活における病気や障害や死の排除、健康や若さが至上価値とされるアメリカ型消費社会である現代社会における、負の価値をもつものの絶対的排除である。


 しかし、このような動物化に見られる死の認識の排除などは、恐怖と同時に人間にとって最大の快楽(自分を認識し、世界を統御することにより、逆説的に人間の有限性を超えること)も追放する。

 近代以前の社会においては、障害者や統合失調症者は、超越的な世界を垣間見せる聖なる存在であったし、死は近代医学に見られるような単なる生物学的死ではなく、共同体における意味ある事象であった。もちろんこれらの文化や社会のあり方にさまざまな問題はあったにせよ、死についての認識は私たちの存在を豊かにするものだった。

 象徴的な世界や文化とは、このような人間にとって避けえない負の事態を名指しし記述し、生の中で意味づける試みであった。が、現代社会における「経験の隔離」は、哲学や宗教や実存的なものを扱う文化を無用のもの、役に立たないものと考える(文学部の解体に見られるように)ことで、象徴的な世界や文化を排除してしまう。


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