2016年12月01日

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




ギデンズの「経験の隔離」とは、ラカンの「現実界」を遠ざけておくことと対応している。

 私たちは、明日も明後日も自分が同じように元気で生きるだろうと漠然と信じている。しかし、交通事故に遭った人がそれは幻想でしかなかったことをよく知っているように、死という「現実界」はいつでもどこでも襲ってくる可能性をもっている。

 この恐れに常に苦しんでいるのが統合失調症やパラノイアの人たちである。いつどこで死や災害が襲うかもしれないのに、何となくそれは来ないと信じている私たちの方が能天気で幻想の中にいるのである。そしてそれこそが恒常性ということの中身であり、私たちが他者や世界を漠然と信じていることに呼応する。

 しかしここで、イマジナリーとしての無根拠な信頼がなければ、私たちは生の不安定さに押しつぶされそうになるが、それは現実にある死を見ないということではない。文化は、先述したように死や痛みや外傷を積極的に表象師、そのことでむしろ私たちの心の痛みを緩和してきた。死を見ないこと、排除を持続することは一方で不安を喚起するのであり、私たちはむしろこの不安の正体を勇気をもって見ることができる(他者への信頼、他者との不安の共有を支えに)方法を確立してきたのである。

 これに対し、ギデンズは、こうした現実を遠ざけるあり方について、近代以降、そして現代、死の排除が強まっていることを指摘する。近代医学における死の排除、日常生活における病気や障害や死の排除、健康や若さが至上価値とされるアメリカ型消費社会である現代社会における、負の価値をもつものの絶対的排除である。


 しかし、このような動物化に見られる死の認識の排除などは、恐怖と同時に人間にとって最大の快楽(自分を認識し、世界を統御することにより、逆説的に人間の有限性を超えること)も追放する。

 近代以前の社会においては、障害者や統合失調症者は、超越的な世界を垣間見せる聖なる存在であったし、死は近代医学に見られるような単なる生物学的死ではなく、共同体における意味ある事象であった。もちろんこれらの文化や社会のあり方にさまざまな問題はあったにせよ、死についての認識は私たちの存在を豊かにするものだった。

 象徴的な世界や文化とは、このような人間にとって避けえない負の事態を名指しし記述し、生の中で意味づける試みであった。が、現代社会における「経験の隔離」は、哲学や宗教や実存的なものを扱う文化を無用のもの、役に立たないものと考える(文学部の解体に見られるように)ことで、象徴的な世界や文化を排除してしまう。


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ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




バウマンは、恒常性の危機について、次のような警告をしている。

 バウマンによれば、近代社会の基礎として、世界内存在の近代的形態を形成した行動・態度は、充足の先送りであった。そして一方で資本の蓄積、他方で労働倫理の拡散と確立という、重要な近代的革新が可能になったとウェーバーは述べた。

 しかし、労働倫理が先送りを永遠に続けようと圧力をかけるのに対し、現在、消費の美学は先送りを中断させようと圧力をかける。そして、消費の美学の勝利により、現在、欲望と充足の距離は恍惚の一瞬へと短縮されつつある。ついには、先送りを完全にやめたいという欲望へと移行しつつある。こうなればフロイトのいう「死の欲動」に近づいていくとバウマンは述べる。


 近代史において、先延ばしに戦いを挑んだこうした文化は希である。そこには、距離を置くこと、思索すること、連続性、伝統といったもの−−独哲学者ハイデガーが現存在の形態であるとしていた、「反復」が存在する余地はないとバウマンは指摘する。

 バウマンは伝統的秩序のもとでは、労働は必要性のシステムと結合しており、必要性ということは、良き生活を送るということの重要部分を占めていたという。これに対し工業製造的秩序の時代になると、必要性にとって変わるのは利害となる。善とか善き生活という観念をもつ使用価値に代わり、それらを欠き、脱埋め込み化され、集合的な選好リスト(皆が何を好きで欲しいと思うかのリスト)を通してものに付与される抽象的価値である交換価値(要するに何が売れているかが何を必要とするかに代替される)が優勢となる。それゆえ、今生産されているものはほとんどゴミ屑だとバウマンやラッシュはいう。



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2016年11月16日

ポルノグラフィ(2)

争点・フェミニズム

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 ポルノグラフィに関してのフェミニストたちの意見の食い違いは、近い将来に解決されそうにはない。しかし、今や相違と同様に合意のある部分がどこなのかを見定めることは可能だし、議論の水準を解きほぐすことで、フェミニストが直面している政治的選択を明確にすることも可能である。

 まずは出発点として、現在ではたいていのフェミニストが、セクシュアリティは単に個人の嗜好の問題ではなく、より広い社会的問題と結びついていることに同意することを考えよう。また、もしポルノグラフィがどんなやり方であれ女性の抑圧に加担しているのであれば反対されるべきだ、ということにも同意できるであろう。このポルノグラフィへの反対は、たとえポルノグラフィが唯一の、そして主たる[女性]抑圧の原因でなかったとしても正当化される。フェミニストが積極的にポルノグラフィへの反対運動を行ないたいか否かは、ポルノグラフィの抑圧的な役割をどう評価するか、そうした役割への反証からどのように説得されるか、そしてポルノグラフィが女性に潜在的な害と同時に利得をもたらすと考えるか否か、にかかってくることだろう。


 ポルノグラフィは多かれ少なかれ女性の抑圧にかかわりがあると認める多くのフェミニストたちも、ではポルノグラフィをどのように否定していくかということについては意見が分かれることだろう。解決手段を法制化に求め、マッキノン=ドウォーキンのモデルに強く影響される人々もいる。だが彼女らの示すモデルは法律にではなく女性に力を与えることを意図していると主張されているにもかかわらず、多くのフェミニストは家父長的な法システムを信頼するには気がすすまないままでいることだろう。またそうしたフェミニストは、右翼の道徳的保守派と同盟関係に入ってしまうことに対しては深い疑念を抱いていると思われる。というのも道徳的保守派の人々は、法律を反フェミニズム的かつ抑圧的な目的に利用するかもしれないからだ。ポルノグラフィを検閲することへの懸念も、水ももらさぬポルノグラフィの法的定義をつくりだすという問題とずっと結びつけられていくだろう。そしてこのはっきりとしたポルノグラフィの法的定義は、返す刀で、従属的もしくは抑圧的なものは何から構成されるのかについてのフェミニスト間の不一致とも結びついていきそうだ。


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