2017年02月20日

浅井美智子「生殖技術と自己決定」

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)




浅井美智子「生殖技術と自己決定−−代理母のエシックス/ポリティクス」(PP. 159-178)


生殖へのある種の個人的欲望の実現は、自己決定権として正当化されない場合もあるだろう。それは、人間が社会的存在以外のものではありえないことと接続しているように思える。ここでは、それをとりあえず倫理と呼んでおこう。(PP. 160-161)


英米のみが「代理母」を容認しているが、それは背景に功利主義の倫理学があるからだと思われる。つまり、功利主義は、倫理的に正しい行為を、可能な限り多数の人々に共有されうる肯定的な価値(善)とみなされるものだと定義する。したがって、イギリスでは、商業的代理母は(ウォーノック・リポートがいうように)「他人を手段とする」ことだとして禁止されているが、慈善の代理母は相互の母の幸福(子どもをもつこと)だとして是認されている。アメリカは自由と自己決定が基本であり、結果として不幸を招いたときに調停される。つまり不幸の軽減が図られるのである。(P. 174)


 日本では、ドイツ・フランスと同じく、いかなる代理母も禁止の方向が打ち出されている。禁止の根拠はどこにあるのだろうか。これまで見てきたように、善意の代理母が存在し、それがたとえ一方的な慈善的行為であろうとも、海外に代理母を求める人々を止めることはできない。それでは日本国内ではどうか。

 国内では、姉妹の妹が子宮のない姉に代わって姉夫婦の受精卵を妊娠・出産した例がある。英米のように慈善の代理母を調達するのは難しいが、この事例は血縁者によってなされた代理母であり、その意味で容認しがたい。なぜなら、それは血縁者の犠牲を前提とすることは、個別的にはどれほど慈善的行為であろうとも、不妊の姉妹をもつ女性に抑圧的な言説を用意することになるからである。法的に規制するのであれば、このような抑圧は最も避けねばならないことである(P. 174)。




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2017年02月09日

浅井美智子「生殖技術と自己決定−−代理母のエシックス/ポリティクス」

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)




1 生殖医療の現在


 性と生殖が否応なく合致していた時代には、生まれた子どもに対する道徳的責任はその子どもを作り出した男と女にある、とされていた。男性は性の責任を「妻子を養う」という経済性に、女性は妊娠・出産・育児を担う労働性に、まさに性別役割分業において生殖責任を果たすことになっていた。この責任を全うするための装置が近代家族である。

 しかしながら、フェミニズムは、婚姻制度に組み込まれた性・生殖がその道徳性において男が女を支配する装置を稼働させるものであることを指摘した。つまり、近代家族は婚姻関係にある女性の貞操や母性愛という自然が子どもを育てるというような道徳を流布してきたが、それは要するに性と生殖における男性支配を正当化しているだけである、という。フェミニズムはそれをファロセントリズム、家父長制として批判してきた(p. 161)。

→ 現代は、上記の「道徳」が「弛緩」している。

技術的な「ヒトの生産」をどう社会的に認知するか、すなわち、今日の道徳的に弛緩した子産み、子育て環境において、生殖技術のどのような規範化が可能か、それが新しい人間の誕生を現実のものとしたわれわれの社会に課せられた問題である(p. 162)。

 
 たしかに一般的な意味で自分の子どもをもとうとすることは自由であり、「生殖への権利」としてすら措定できるだろう。しかし、個々の欲望の実現が医療システムに許容されるには、治療としての正当性がなくてはならない。したがって、身体的には子どもを産めるけれども、時間的にゆとりがない、体型が崩れる、単に産みたくない、など、身体的に妊娠・出産が可能な人が、個人的理由によって代理母を頼むことは医療とは認知されないだろう(p. 162)。


 では、次のような場合はどうだろう。@妊娠・出産がその女性の生命を著しく傷つける場合、A子宮を事故や疾病で失った女性、B子宮がもともとない女性、C閉経後の女性、D子宮のない男性、彼らが代理母を頼むことは医療的に可能だろうか。

 CDの場合は、生殖において生物学的に不可能な事態、すなわち「不妊」ではないから治療の対象者となりえない。問題は、@ABの場合である。

 妊娠・出産が生物学的に女性性固有の特質であるなら、たしかに、彼らは幸福のために、可能な限り最善の医療の恩恵を望むことは否定されない。臓器移植が医療として認知されているのだから、子宮の移植の可能性が模索されていない以上、代理母を頼むことが子どもをもつ最善の方法とすれば、医療的恩恵を受ける方法として代理母を不妊治療のカテゴリーに入れる可能性は皆無ではない。

 しかし、現実的な問題として、医療と認知されるには医療提供者とその享受者それぞれの選択の自由があるとはいえ、上記理由のすべての人たちに平等に代理母を割り振ることが可能だろうか。この場合、妊娠・出産を代理する女性は医療資源とみなされるのだが、代理母の人権はどうなるのだろう。また、生まれてくる子どもは現行の法律では代理母の子どもとなる。まさにこれから生きる子どもにその初めから複雑な親子関係を用意することが社会的(養育する)母の「不妊治療」として許容されるのか(p. 163)。







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2016年12月01日

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』ゴフマン、ジンメル

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




若者たちのコミュニケーションの中で、いったいどうやって彼らなりの共同性−恒常性を維持しているのだろうか。それが「じぶんをやつす(自己主張せず目立たないように自己を相対化する)コミュニケーション」である。

 若者といえば、自分が何者かわからず自分に期待をもち、人に認めてほしいがゆえに、背伸びしたり、自分を誇示したりするというのが、これまでノーマルだった。が、昨今の若者ではこれが強く避けられている。自分で自分を自慢する奴は鼻持ちならない奴なのである。

 一方で、自分をやつすことは、通常の儀礼的コミュニケーションの中でこれまでもなされてきた。


ゴフマンがコミュニケーションにおける社会的なルールとして記述した「儀礼」とは、互いの「フェイス(面子)」を傷つけないように、自らを互いに謙遜し合うことを意味している。相手を誉めるのが礼儀であり、自分が誉められればそれを否定してみせてへりくだるのが儀礼である。しかし、若者たちの儀礼は、通常の儀礼を超えて、一切の自己顕示を抑制する。

 謙遜し合ってばかりでは、自分が何者なのかは語れない。自分が何が好きで何が長けていて、何を考えているか少しは自己評価に関わることを話さなければ、互いのコミュニケーションは深まっていかないだろう。しかし若者のコミュニケーションの中では、これが決定的に抑圧されている。それゆえ自分のことを語りたいと思う若者は、手足をもぎ取られたような状態になる。またとりわけネガティヴな話題はノーである。もちろんこれとてお笑いのフレームにのせれば全面開示さえできる。しかしそのフレームで表出された場合、メタレベルは「笑って下さい」になる。結局応える方は、真っ直ぐ受け取ることができなくなるのである。
 

 もちろん、そもそもコミュニケーションには困難が存在し、ストレートなコミュニケーションには多大なリスクが存在する。ゴフマンは、ほとんどのコミュニケーションは楽しいものではなく窮屈なものだと述べている。

 人は、自分と人が同じような考えをもっているという幻想をもって人と交流しているので、意見やセンスが異なることにショックを受ける。とりわけ自分のアイデンティティの核に関わることである場合、意見の対立は関係の破綻を生むくらいのリスクとなる。

 
 ドイツの社会学者ジンメルも同様にコミュニケーションがしばしば喧嘩になることを指摘した。それゆえできるだけ現実の利害関係などに触れない抽象的、趣味的な話題でなされる当たり障りのない「社交」の必要性を説いていた。

 しかし、それは(中略)互いが無害であることを確認し合うメタコミュニケーションの連続である。


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