2016年10月15日

砂川秀樹「多様な支配、多様な抵抗」

現代思想 2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル




★ kindle版もあります。↓

現代思想 2015年10月号 特集=LGBT 日本と世界のリアル




 LGBTが大きくとりあげられブームのような様相を呈している中で、これまでと最も違う印象を受けるのは、企業がLGBTの問題に関心を持ち始めていることだ。東京でのパレードのような大きなLGBTイベントにスポンサーとして援助し始め、職場でいかにLGBTが働きやすい環境を整備するかというテーマについても論じられるようになった。

 この流れは、外資系のグローバル企業から始まり、日本の大企業も追随するという形をとっている。その中でそれらの企業と組む活動は、商業性が強くなり(活動そのものが利益を得るというよりスポンサーのもたらす表象性という意味で)、社会全体の中で支配的な力を持つものが持つ文化に近づき、いわゆるアッパーミドルからアッパークラス中心の活動となる。もちろん、実際には、そのように見える活動にも、多様な階層の人が参加しているのであり、異なる志向性を持つ人も活動している。ここで言っているのは、あくまで表象的、全体としての志向性の話である。その流れに対して、LGBTの貧困問題、メンタルヘルス問題など困窮した側面に注目をし、そこに問題意識を強く持つものからは、批判が向けられることもある。これは、米国などのパレードでも繰り返されてきた批判だ。また、同性間パートナーシップの法的保護の実現を中心的課題とする活動に対する違和感を耳にすることも少なくない。これもまた、米国で同性婚の結婚の実現(結婚の平等化)が、LGBT活動の目標の大部分を占めるかのように展開されてきたことへの批判とも通じる。

 私が2010年に東京でパレードの代表となったときに、そこにグローバル金融企業がブース出展をしてくれた。そのような大企業がパレードにブースを出したのは初めてのことだった。しかし、ちょうど経済格差を生み出している要因の一つとして金融企業に対する批判が高まっている時期でもあったため、それらの企業の出展に対してSNSを通して批判が向けられた。またその一方で、私は「ホームレス」の人たちの自立支援のための雑誌「THE BIG ISSUE」と協力し、同じパレードの会場で「THE BIG ISSUE」の販売スペースを設置した。そのような連携に対しては、あるイベントオーガナイザーから「パレードは、今はホームレスのイベントになっているの?」と揶揄されることもあった。その言葉が向けられる背景には、他の社会運動(しかも地味なもの)との連携を快くなく思い、クラブカルチャー的なものを前面に出したい実行委員によるミスリーディングがあった。

 それぞれ違う立場から批判や反発を受けることになったこの二つの支援/協力は、ある意味で矛盾するものとしても映ることだろう。しかし、LGBT活動全体として矛盾するものとしても映ることだろう。しかし、LGBT活動全体として矛盾することがあるのと同じように、一つの活動の中にもときに矛盾するものは存在しうる。(pp. 104-105)


 私が共同代表を務めるピンクドット沖縄では、2013年に最初のピンクドットが終わったあと、二つのセミナーに関わることになった。一つは、自ら主催したもので、米国に日本から留学している大学院生による、米国のクィアアクティビズムにおける最新の議論の紹介であり、もう一つは、在沖縄米国領事館主催で私たちが後援となった、米国最大のLGBT権利運動団体「Human Rights Campaign (HRC)」の法務部長によるものだった。

 前者のセミナーでは、米国における「主流」のLGBT運動がネオリベラリズムや国家主義と結びついていることへの批判、結婚の平等化が最優先されているのはアッパーミドルクラスのニーズによるものであるとの批判が生じていることについて報告があった。そして、後日のHRCのセミナーでは、まさに「主流」のLGBT運動の戦略について聞くこととなった。彼が地元の新聞記者が「米国でどのように訴えてきたか」と質問したときに、「私たちは異性愛者と同じであるということです」と答えていたことが印象的であった。

 その二つのセミナーを終えたあと、ピンクドットのメンバーで感想を共有した際には、大きく制度を変えていくときに戦略的に支配的な文化に合わせていかなければならないときがあること、しかし、そのまま支配的な文化と一体化したり、大きな社会的な流れに飲み込まれたりしてしまうことの危険性について話し合った。結論は、その軸を常に意識しながら、揺れること、あるいはその間を往還することの必要性であった。(pp. 105-106)


例えば、同性間パートナーシップを行政が認める動きの中で、婚姻制度そのものに反対する立場のものは、対のパートナー関係を一つの単位とし、かつ最上の関係であるように表象し、さらにその関係を国や地方行政などに管理されるシステムに批判的であるがゆえに、そのシステムに同性カップルが参入することを批判する。それは、最もラディカルな立場の一つだ、。当然ながら、その対極の同化主義に位置づけられるのは、その案の内容を無批判に歓迎する立場だろう。渋谷区のパートナーシップ証明書は、区長による許可を必要とし、それを受け取るための前提となる法的保障のために経費がかかるが、同化主義的な立場からは、異性愛者の婚姻との大きな違いとなるその点は、「保守派」からの強い反発を招かないために(保守派の態度を変えることなく)受け入れる必要があると考える。さらに、異性間の婚姻と異なる点を批判し、できる限り同じ扱いを求める立場は、婚姻を求めるという意味では同化主義的であり、差異をつけて安心する社会の支配的な価値観を変えることを求めるという意味ではラディカリズムでもある。(p. 102)

タグ:クィア
posted by R_Partner at 14:06| Comment(0) | 雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

清水晶子「大学は〈大学〉を守れるのか−−大学におけるセクシュアル・マイノリティ」

世界 2016年 11 月号 [雑誌]




大学にはいま、何が求められているのだろうか。

 (前略)セクシュアル・マイノリティの構成員はほかと違った特別の保護を必要としているわけではない。あらゆる構成員の人権と安全とを保護し、教育、研究及び労働の環境を整えることが大学の責務であるならば、大学に求められているのは、現状では部分的にしか果たされていないその責務を十全に果たすべく努めることに過ぎない。一面では、制度や施設の設計にかかわる問題があるだろう––@ハラスメント対応のガイドラインに性自認や性的指向にかかわる権利侵害が明示されているか、A学生寮の部屋割りや施設がシスジェンダー(生まれた時に付与された法律上の性別とみずからの性自認とが一致していること)の異性愛者だけを念頭に置いたものになっていないか、B学籍簿や学生証、職員証などに不要な性別記載がないか、C定期健康診断のスペースやシャワールーム、トイレなどが、男女別の設定に馴染まない構成員にも利用可能な形で提供されているか、など。(P. 194)


それと同時に、あるいはそれをも含めてより根本的に必要なのは、大学の構成員の性自認や性的指向を多数派のそれだと自動的に前提しない態度である––@聞き手がシスジェンダーの異性愛者であることを想定した発言や冗談を控える、A答える側がカミングアウトするか否かを迫られるような質問をしない(これはアウティングの一種である)、B当人への確認なく男性に「くん」、女性に「さん」をつけて呼ぶなど、相手の性別を断定する対応をしない、C性的少数者のことを、聞き手にとって馴染みのない、その場にいない存在であるかのように語らない、Dカミングアウトしている構成員だけがその場にいるセクシュアル・マイノリティだとは考えない、など。(P. 194)


 もしあなたが学生や教職員で、そんな日常の細かい言動のいちいちにまで注意を払っていられないと感じるのであれば––そして実際に注意を払ってみればそう感じることは多々あるだろう––そしてとりわけあなた自身が性的少数者でないのであれば、あなたはその時はじめて、多数派とは異なる性自認や性的指向をもつ構成員が大学で日常を送るにあたって、どれだけの気を遣い、どれだけの注意を払っているのか、その片鱗を知り始めたことになる。あなたはその時はじめて、性的少数者を取り巻く大学の環境がいかにまだ差別的で危険に満ちているか、悪意がなくとも思慮に欠けるアウティングがどれだけ問題をはらんでいるかを知り始めたことになる。そしてその時はじめて、大学がマイノリティの権利と安全とを保障し〈大学〉としてあるべき姿に到達するために何をすべきなのか、考え始めることができるのだ。(P. 194)



★ こちらも勉強になります。 ↓

ジェンダーと「自由」―理論、リベラリズム、クィア




タグ:クィア
posted by R_Partner at 13:20| Comment(0) | 雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない」

●Kindle版のみ。Kindle Unlimitedの対象です。

atプラス 10号




宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない−−震災に向き合う思想の準備に向けて」


渋谷の終わりに象徴される「スーパーフラット」化と軌を一にして、21世紀に入ると東京都石原真太郎都政を皮切りに店舗風俗の一斉摘発が連続してなされ、程なく全国化します。最近では東京都と沖縄県を皮切りに暴力団排除条例が全国化しつつあります。組関係者への便宜供与を不動産物件の売買や賃借を含めて禁止するもので、憲法違反の疑いがあるからなのか国会審議を回避する条例化がなされています。

 これは2001年9月11日の同時多発テロ事件以降に拡がった、僕が「不安のポピュリズム」と呼ぶ世界的流れの一環です。日本に限れば、83年頃から拡がる「法化社会」化の流れの仕上げに当たります。(中略)

 90年代になると「不安のマーケティング」を背景にサキュリティ産業が拡大します。特に90年代半ばのオウム事件後、街のあちこちに監視カメラが設置され始めます。(中略)83年というとコンビニ化(セブン−イレブンの店舗増加とPOS導入開始)開始(82年)の直後ですが、隙間や余剰の消去という意味での「スーパーフラット」化の出発点です。

 「法化社会」化と平行するこうした「スーパーフラット」化は、9.11以降の全世界的なセキュリティ化の流れに先だって、僕たちが「不安のマーケティング」と「不安のポピュリズム」を通じて市場と行政への依存を深め、逆に共同体自治による自立を失っていくプロセスを示しています。「16号線的風景」化としての「スーパーフラット」化も同様に、市場と行政への依存の深まりと、共同体自治による自立の喪失の、見事な現れです。

 市場と行政への依存の深化と、共同体自治による自立の喪失の、可視的現れである「法化社会」化と「16号線的風景」化。それに駆動される「スーパーフラット」化。この「終わりなき日常」の第三レイヤーは僕たちを幸せにするのでしょうか。


 83年から展開し始めた「法化社会」化は、95年のオウム事件を経て96年以降一挙に進みます。82年から展開し始めた「コンビニ」化やそれに続く「ロードサイドショップ」化は、96年のホットスポット消滅以降一挙に全域化します。人々はあまり意識しませんが、96年こそ「終わりなき日常」の第三レイヤーが完成した年です。つまり「解放区」が消滅した年だということなのです。

 僕はこの「解放区」を「ホームベース」と呼んできました。(中略)でも「16号線的風景」化によって消えました。「スーパーフラット化=ホームベース消滅」なのです。

 奇しくも96年はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットし、自称AC(アダルトチルドレン)が巷に溢れる時期。援交現場も自傷系少女だらけになりました。自意識の問題が以前に増して意識されるようになります。僕には「ホームベースの消滅」が「自己の時代」をより先鋭化させたと睨んでいます。


「法化社会」化と「16号線的風景」化による「場所のスーパーフラット」化に続いて、「人のスーパーフラット」化が拡がります。77年から始まる「自己の時代」以降、ナンパ系とオタク系の間には優劣関係があると思われてきました。ところが96年から援交を含めた性愛への過剰コミットがイタイと感じられ始めます。(中略)

 こうしたナンパ系の地位低下と同時期にオタクの地位上昇が生じます。(中略)ナンパ系がイタくなり、オタク系がコミュニカティブになった結果、96年以降ナンパ系とオタク系の間に優劣関係を想定するコミュニケーションが一挙に廃れます。(中略)

 こうしてナンパ系がオタク系の数多あるトライブの一つになるという「横並びの島宇宙化」が顕著になります。(中略)副作用も生じました。第一に(中略)創造者ならざる消費者的なオタクだらけになったという問題です。

 第二に(中略)ナンパ系サイドにも問題が生じました。性愛に対する期待水準の低下です。

 (中略)

 80年代に新興宗教系に入信する人が急増するのですが、内訳を見ると風俗・水商売の女の子の割合が非常に高かったのです。僕の解釈は、性愛と宗教はともに「包括的承認」を与えるツールとして機能的に等価だから、というもの。だから性の期待外れが宗教への要求を生むのだと思います。


 性愛にホームベースを見出せなかった者にとって、異世界や宗教が新たなホームベースとして期待された。それがオウム真理教ブームの重要な背景だと思います。

 だからこそオウム事件は、宗教にホームベースを見つけようとした者たちに衝撃を与えました。少なくとも短中期的には宗教にホームベースを見出すことは不可能になったと思えました。



タグ:政治 社会学
posted by R_Partner at 16:14| Comment(0) | 雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする