2016年01月05日

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

★高校生のうちに読んでおきたい本


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)





側(サイド)の発想

いっぽうの側を善であり、もういっぽうの側を悪と決めつけるような分析は、真の知的分析においてはつつしむべきなのである。そもそも、こちら側やあちら側といった、側(サイド)の発想は、複数の文化が争点となるところでは問題がありすぎる。なぜならば、ほとんどの文化はけっして防水包装した商品のように、同質的で、それだけでまとまっていることはなく、どちらが良いか悪いかなど決められないからである。(p.189)



いっぽうの側を純粋無垢な善であるとして、もういっぽうの側を度しがたき悪であるとする教条的な思考法によって、本来の社会過程すなわち相互交換的なギヴ・アンド・テイクの過程が脇に追いやられようものなら、世俗的な知識人たる者は、眉をひそめ、これを、あってはならない領域侵犯とみなしてしかるべきなのだ。政治が宗教的熱狂にとってかわられる−−かつてユーゴスラヴィアと呼ばれた地で現在起こっているのがこれである−−、そしてその結果が、民族殲滅であり、大量虐殺であり、はてなき抗争である。(pp.180-181)


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2016年01月02日

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

★高校生のうちに読んでおきたい本


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)





きわめつけの堕落

わたしにとって関心があるのは知識人個人の行為であり、これは(中略)往々にして、回避するか、ただへつらうかのいずれかになりがちなのである。
 私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。たしかに、いかに風あたりが強くても、断固として筋をとおす立場というのは、それが正しいとわかっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持ちはわかる。あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考えかたの持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。
 知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。情熱的な知識人の生活が変質をこうむり、骨抜きにされ、最後には抹殺されてしまうときがあるとすれば、それは、こうした思考習慣が内面化されたときである。(pp.160-161)


個人的なことをいうと、現代世界の諸問題のなかでもっともやっかいな問題のひとつであるパレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。というのも、現代史における最大の不正のひとつについて語ることに対する恐怖が蔓延しているため、本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人びとが発言を自己規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしるからである。パレスチナ人の権利や民族自決権をはっきりと支援すると、さまざまないやがらせや中傷を覚悟せねばならないのだが、それでもこの真実は、語るにあたいする真実である。(pp.161-162)



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2016年01月01日

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

★高校生のうちに読んでおきたい本


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)




知識人の役割


自分のアイデンティティならびに自分が属する文化や社会や歴史の実際のありようと、他者のアイデンティティや文化や民族の現実とを、いかに和解させるかが基本的問題になってくる。この場合、すでに自分が属するものを優先させるような姿勢をつらぬこうものなら、和解など到底望めない。「われわれの」文化の栄光についての、あるいは「われわれの」歴史の勝利についての鳴りもの入りの宣伝は、知識人が心血をそそぐような行為ではない。とりわけ、自国民を顕彰するような、このような還元化は、多くの社会が異なる人種や異なる民族的背景からなりたっている現代世界において、およそ実情にそぐわないというほかない。(pp.151-152)


わたしはこう問いたい。本当に現代の知識人−−とはつまり、客観的な道徳規範とか、賢明な権威と思われていたものがすべて消滅し混迷をきたしている時代に生きる知識人ということだが−−にとって、自国のやりかたならこれを無批判に支持して、自国の犯罪行為に眼をつぶるか、さもなくば、「どこの国でもそれをしていると思うし、それが世界のやりかたではないか」とたかをくくってしまうというふたつの選択肢しかないのだろうか。むしろ、わたしたちはこう要求すべきではないか。知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきではなく−−これまで語ってきたことのくりかえしになるが−−、権力に対して真実を語ることができるような、別の選択肢を念頭におき、もっと原則を尊重するような立場にたつ、まさに知識人たるべきではないか、と。(p.156)


現在、すべてとはいわなくとも、ほとんどの国々は、1948年に宣言された〈世界人権宣言〉(直訳すると「人権に関する普遍的な宣言」)の調印国であり、新たに国連に加入する国は、すべてこの宣言を批准することになっている。世界人権宣言は、戦争に関する規則、捕虜の扱い、労働者・女性・子供・移民・難民の権利などについて、厳格な規定を定めている。またこの文書のどこにも、資格なき人種や民族、つまり平等の権利を保証されない人種や民族についての記述はない。つまりすべての人種や民族は、同じ自由を保証されているのである。(中略)知識人の役割とは、国際社会全体によってすでに集団的に容認された文書である世界人権宣言に記されている行動基準と規範を、すべての事例にひとしく適用することなのである。(p.156)


誰も、年がら年中、ありとあらゆる問題をとりあげて語るわけにはいかない。しかし、自分自身の社会において制度化され権威づけられた権力が一般市民にとってゆるがせにできないものになるとき、たとえば、そのような権力があきらかに弱小国いじめの観のある不道徳的な戦争において行使されたり、あるいは意図的に計画された差別と抑圧と集団的暴力というかたちになって行使されるときに、そうした権力に焦点をしぼることこそ、知識人にとって、すべてに優先されるべき特別の責務であると思う。(p.158)



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