2015年02月22日

佐伯啓思『自由とは何か−−「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』講談社現代新書(7)

自由とは何か (講談社現代新書)




「負荷なき自己」もある特定の社会の産物

・「リベラリズムの基本的な考え方は、個人を取り巻く偶然性をできるだけ排除し、純粋に「個人」そのものを抽出してゆくことであった。このレベルにおいて定義された個人は、何らかの社会的な属性の刻印をも押されず、どのようなタイプの社会に属するか(それもまた偶然なのである)とは無関係に、アプリオリに想定できる、とみなされた。いっさいの価値を付与されない「負荷なき自己」であり、透明で抽象的な個人である。(...)このいっさいの社会的「負荷」を背負っていない個人において「権利」が設定された。これが、リベラリズムの典型的な理論構造であった。」(p. 220)

・「このような抽象的で透明な個人、「負荷なき自己」さえも、実は、ひとつのある特定のタイプの社会(共同体)の産物だ(...)。これは、当然といえば当然のことである。にもかかわらず、そのことを認識しておくことは決定的に重要である。もしも、純粋に抽出された個人などという普遍的なものが決してアプリオリにはあり得ないとすれば、個人の生まれによって付与されたさまざまな偶然性を剥ぎ取っていくという作業にも、さして大きな意味はない、ということになろう。」(p. 221)

*今後の読書のために
・「負荷なき自己」(the unencumbered self)
・マイケル・サンデル『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房、2009年)

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佐伯啓思『自由とは何か−−「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』講談社現代新書(6)

自由とは何か (講談社現代新書)




四つのリベラリズムが考える社会的価値観

・「(A)の市場中心主義者にとっては、正当な報酬に「値する」とは、市場というゲームに参加してこれに勝つことにほかならない。(...)ここで想定されている社会とは、自分の能力やら運に基づくありとあらゆる機会を総動員して、市場のゲームに参加して勝つことをよしとする社会だ。競争に勝つという生き方を中軸的な価値とする社会なのである。」(p. 212)

・「(B)の能力主義の場合には、ただ勝利することではなく、競争における勝利によって示される能力こそが賞賛される。そこに決定的な価値を見出す。だから、たとえばここでは、そもそも財産のある裕福な家柄に生まれついたものが市場ゲームの勝者であるよりも、むしろ、財産を持たない貧しい生まれながら、才能と努力によって一財産築いた成功物語のほうがはるかに好まれる。ほとんど彼の人格と等値されるような彼の能力と努力こそが社会的評価に値するわけだ。」(pp. 212-213)

・「(C)の福祉主義の場合には、次のようなモデルが想定されているといってよいだろう。人間は仮に能力があったとしても、その能力を発揮して、得られるだけのものを得て、それを自らのものとすることは決して望ましいことではあるまい。
 考えてみれば、たまたま彼がある種の能力を授かっただけのことで、能力とは、本来、社会の共有財産、共通資産とみなすべきものである。だとすれば、それを社会に還元することにこそ意味がある。いってみれば、競争における勝者は、社会に対する奉仕・還元の義務を負っている。」(pp. 213-214)

・「(D)の是正主義は、その基本において能力主義といってよいだろう。黒人も白人と同様の能力を持っており、女性も男性と同様の能力を持っている。多少ハンディキャップを持った者も、ある条件さえ整えれば、その能力を十分に発揮できる。このように、是正主義は、構造的に不利な立場に置かれた人々の条件を是正することで、彼らの持つ本来の能力を発揮できるようにしようとする。」(p. 214)

・「是正主義に基づく能力の発揮は、個人の活動の機会が増大して幸福が増す、といったことだけではなく、個人が社会的に承認されるという面を持っている。構造的な差別は、その人間の個人的な幸福の機会を奪うだけではなく、その人間の社会的な意味づけの不当な低さを生み出している。(...)
 だから、ここでは(...)能力の発揮は、彼が社会的に承認を得る重要な手続きとなっているのだ。それゆえ、貧しいからといって福祉給付に頼って生きるのでは十分な社会的承認を得ることができない。それはそもそも己の能力を発揮しようとしていないことになる。これでは、社会的な承認に基づく尊厳を得ることはできない。
」(p. 215)

・「するとここ(是正主義;引用者註)でもやはり、ある種の社会モデルが想定されていることがわかる。それは、自らの能力を発揮することで社会的に有意味な存在として承認を得ることが望ましいとみなされる社会である。同時に、そのためには、競争上、ハンディキャップを負った者には、その承認へ向けた支援が望ましいとする価値観が共有された社会である。」(p. 215)
 *→ ポジティブ・アクション、合理的配慮
 *茂木洋平「Affirmative Actionと能力主義」(GEMC Journal, 2009, no. 1, pp. 138-147)





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ラベル:政治哲学
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2015年02月20日

佐伯啓思『自由とは何か−−「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』講談社現代新書(5)

自由とは何か (講談社現代新書)




4 古代ギリシャ人にとっての「自由」


・「善き生活」とは何か。(...)さしあたりそれは幸福な生活である。では幸福とは何かというと、幸福とは完全な徳を持って生活すること、活動することとされる。幸福は、物質的な利益や快楽を最大にすることではなく、徳を持って活動する点にある。(...)では徳とは何か。(...)まずは「卓越性」とみなしておこう。」(p. 170)

・「卓越性とは何かというと、そのひとつの重要な意味は、中庸にある。つまりバランスをとることにほかならない。その場合、人間がある活動をするに際して、彼は自由な意志で選択できるということが前提となっている。中庸が徳(アレテー)であるというとき、その行動は決して強制されたものではない。そして、自由に選択した行為について、自らの意思と力で行為の「中庸」を実現するところに「徳」が出てくる。」(p. 170)

・「たとえば、放埒と禁欲の「中」として「節制」という徳があり、大胆と臆病の「中」として「勇気」がある。傲慢と卑屈の「中」として「矜持」があり、辣腕と愚鈍の「中」として「思慮」がある。また「配分の正義」とは、過剰と過小の「中」としての「均等」である。これらは重要な徳なのである。
 そのうちでも「思慮」という徳は、ことさら大事なものだ。というのも、人間の活動はある目的を持って行われる。ではその目的が本当に「善き生活」のためのものかどうか、それをいったいどうして判断するのだろうか。そこに「思慮」が働かなければならない。つまり徳を実現し、中庸を実現するためには、人間は「思慮」を持たなければならない。活動の意味を、たえず、真の目的との関係で捉え、正しい目的を設定して、そのための行為の「中」を実現するには、どうしても「思慮」が欠かせない。
 言い換えれば、人間の行動を導くものは、快楽や利益ではなく、思慮である。それは幸福を求めるものだが、このことは、「幸福とは何か」を配慮を持って思いなすということと不可分なのである。幸福とは、ただいまここにある快楽や愉楽に飛びつくことではないからだ。ここでは多様な可能性やその人の置かれた状況の中で、何をなすのが一番適切か思いなす必要がある。」(pp. 171-172)

*今後の読書のために
アリストテレス『ニコマコス倫理学』(Hashimoto Tsutomu)
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ラベル:政治哲学
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