2015年02月15日

岡野昌雄『イエスはなぜわがままなのか』アスキー新書

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)



新約聖書はいわば「証言集」のようなものです。キリスト教の世界では「信仰の証言」「証し」と言ったりします。つまり何人もの著者が、自分が出会った神(イエス)がどのようなものであるかを、なんとか他の人々に伝えようとしたものなのです。(p. 33)


ユダの裏切りを題材とした太宰治の小説『駆込み訴え』では、本当は裏切りを思いとどまろうとしていたユダが、このようにみんなの前で辱められたために、カッとなって再び裏切りを決意したという設定になっています。この小説ではユダがイエスに対して情熱的な恋慕とそれゆえの憎悪を持った人物として描かれ、「他人の手で殺されたくない、私の手で殺してあげる」といった動機からイエスを裏切ったことになっており、愛憎入り乱れる人間の心理を描いた、文学作品としてはたいへんおもしろい内容になっています。(p. 70)


*→ 太宰治『駆込み訴え』(青空文庫)
  

キリスト教で言う「罪」とは、犯罪を犯すことではありません。ここで言う「罪」とは、神のほうを向いていないこと、神に背を向けることを意味するのです。日本語の聖書で「罪」と訳されている言葉は、実は言語では20以上の種類がありますが、その中で一番重要なものはヘブライ語(旧約聖書の原語)で「ハッターズ」、ギリシア語(新約聖書の原語)では「ハマルティア」と表現される「罪」です。これらの語には「的はずれ」という意味があり、つまり「罪」とは私たちが的はずれな方向を向いていることである、と定義づけられているわけです。(p. 72)


簡単に言えば、キリスト教で言う祈りとは、神と会話することを意味します。神と自分が何らかの形でコミュニケートしていること、関わっていることが祈りの基本であり、また定義でもあります。ですから、そこには願いのみならず、神に対する賛美や感謝や問いかけや訴え、そして時には「なぜですか!?」という怒りまでも含まれているのです。(pp. 109-110)


私たちの「信仰」と、その対象である「神」という存在は区別されなければいけません。私たちが持っている信仰は人間の営みであり、たえず不完全なものですが、その対象となっている神は完全な、絶対的なものなのです。しかし、この論理が反対になると、「私たちの信じている神は絶対だ。だから、私たちの信仰も絶対だ」というふうになってしまい、原理主義に陥る危険があります。(p. 137)



ラベル:哲学
posted by R_Partner at 11:56| Comment(0) | アスキー新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする