2018年01月17日

ヘルマン・ヘッセ「紛失したポケットナイフ」(1)

 ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』の中で、私がもっとも気に入ったエッセイ「紛失したポケットナイフ」を紹介します。

庭仕事の愉しみ




文庫 庭仕事の愉しみ (草思社文庫)




紛失したポケットナイフ


 昨日私はポケットナイフをなくした。そのとき、私の運命に対する心の準備と人生観がもろい基盤の上に立っていることを思い知らされた。このささやかな損失が私を度を越して悲しませたからである。そして今日もまだあのなくしたナイフのことを考えていて、そんな自分を感傷的だと嘲笑することもできないのである。

 このナイフがなくなったくらいでこんなに悲しい気持ちになるのは、よい兆候ではない。自分がしばらくのあいだ所有していたものにひどく愛着を感じて大切にするのは、私自身がよく批判し、抵抗するものの、完全にはやめることができない奇癖のひとつなのである。そして私が長いあいだ身につけていた服とか帽子とか杖とか、それどころか長いあいだ住んでいた住まいに別れを告げなくてはならないとき、その都度それは私にとって不快なことであり、時として小さな苦痛さえ感じる。

 もっと深刻な別離や決別のことはこの際別としてである。それにあのナイフは、私のこれまでの生活の変化に耐えて生き、すべての変転を通じて何十年ものあいだ私についてきた、まったく数少ないもののひとつであった。

 たしかに私は、まだいくつかの、遠い過去から伝わる神聖なものとなったがらくたを、母の指輪をひとつ、父の時計をひとつ、幼い子どものころの二、三枚の写真など思い出の品をもってはいるけれど、実はこれらはすべて死んだものであり、歴史的遺物であり、戸棚にしまってあって、ほとんど一年に一度も眺めないものである。しかしこのナイフは、何年ものあいだ、ほとんど毎日使ったものであったし、私はそれを何千回となくポケットに入れ、ポケットから出して、仕事や遊びに使い、何百回も砥石で研ぎ直し、前にも何度もなくしては見つけ出したことがあるのだ。そのナイフは私の好きなものだった。そのナイフには挽歌を捧げる値打ちがある。

 それは普通のナイフではなかった。普通のナイフならこれまで生きてきたあいだにたくさんもっていたし、使ってきた。それは庭仕事用のナイフであった。ただ一枚の非常に強靭な、半月型に曲がった刃と、がっちりした、なめらかな木の柄のついた、決して贅沢品とか遊び道具ではなくて、正真正銘の堅牢な武器であり、大昔からの試練に耐えた形をもつ、堅実な工具であった。このような形は、百年も千年ものあいだの父祖たちの経験から生まれたもので、このような試練に耐えた形のかわりに、試練を経ていない、新しい、無意味で遊び半分の形を売り込もうという野心をもつ産業界の攻勢に対して、よくもちこたえることができるものである。

 何といっても、現代人が仕事や遊びのために使う道具を、長い期間使いたがらず、簡単に、頻繁にとりかえたがるというところに産業界は生存をかけているからである。もしも昔のように各人が一生に一回きり、強くて良質の高級なナイフを買い、それを大切に死ぬまで持ち続けるならば、どこにナイフ工場が存続することができるであろうか? 存続できないのである。今日人間は、ナイフ、フォーク、カフスボタン、帽子、散歩用の杖、傘などを、瞬間ごとにとりかえる。これらすべてのものを流行の支配下におくことに産業界は成功した。そして、一シーズンだけのものと予定されて作られたこれらの流行の形に、大昔からの定評ある、堅牢な形の美や、生命や、合理的性を求めることは土台無理な話なのである(pp. 76-78)。




ラベル:文学
posted by R_Partner at 10:36| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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