2017年02月09日

浅井美智子「生殖技術と自己決定−−代理母のエシックス/ポリティクス」

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)




1 生殖医療の現在


 性と生殖が否応なく合致していた時代には、生まれた子どもに対する道徳的責任はその子どもを作り出した男と女にある、とされていた。男性は性の責任を「妻子を養う」という経済性に、女性は妊娠・出産・育児を担う労働性に、まさに性別役割分業において生殖責任を果たすことになっていた。この責任を全うするための装置が近代家族である。

 しかしながら、フェミニズムは、婚姻制度に組み込まれた性・生殖がその道徳性において男が女を支配する装置を稼働させるものであることを指摘した。つまり、近代家族は婚姻関係にある女性の貞操や母性愛という自然が子どもを育てるというような道徳を流布してきたが、それは要するに性と生殖における男性支配を正当化しているだけである、という。フェミニズムはそれをファロセントリズム、家父長制として批判してきた(p. 161)。

→ 現代は、上記の「道徳」が「弛緩」している。

技術的な「ヒトの生産」をどう社会的に認知するか、すなわち、今日の道徳的に弛緩した子産み、子育て環境において、生殖技術のどのような規範化が可能か、それが新しい人間の誕生を現実のものとしたわれわれの社会に課せられた問題である(p. 162)。

 
 たしかに一般的な意味で自分の子どもをもとうとすることは自由であり、「生殖への権利」としてすら措定できるだろう。しかし、個々の欲望の実現が医療システムに許容されるには、治療としての正当性がなくてはならない。したがって、身体的には子どもを産めるけれども、時間的にゆとりがない、体型が崩れる、単に産みたくない、など、身体的に妊娠・出産が可能な人が、個人的理由によって代理母を頼むことは医療とは認知されないだろう(p. 162)。


 では、次のような場合はどうだろう。@妊娠・出産がその女性の生命を著しく傷つける場合、A子宮を事故や疾病で失った女性、B子宮がもともとない女性、C閉経後の女性、D子宮のない男性、彼らが代理母を頼むことは医療的に可能だろうか。

 CDの場合は、生殖において生物学的に不可能な事態、すなわち「不妊」ではないから治療の対象者となりえない。問題は、@ABの場合である。

 妊娠・出産が生物学的に女性性固有の特質であるなら、たしかに、彼らは幸福のために、可能な限り最善の医療の恩恵を望むことは否定されない。臓器移植が医療として認知されているのだから、子宮の移植の可能性が模索されていない以上、代理母を頼むことが子どもをもつ最善の方法とすれば、医療的恩恵を受ける方法として代理母を不妊治療のカテゴリーに入れる可能性は皆無ではない。

 しかし、現実的な問題として、医療と認知されるには医療提供者とその享受者それぞれの選択の自由があるとはいえ、上記理由のすべての人たちに平等に代理母を割り振ることが可能だろうか。この場合、妊娠・出産を代理する女性は医療資源とみなされるのだが、代理母の人権はどうなるのだろう。また、生まれてくる子どもは現行の法律では代理母の子どもとなる。まさにこれから生きる子どもにその初めから複雑な親子関係を用意することが社会的(養育する)母の「不妊治療」として許容されるのか(p. 163)。







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