2016年12月01日

樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』ゴフマン、ジンメル

ネオリベラリズムの精神分析〜なぜ伝統や文化が求められるのか〜 (光文社新書)




若者たちのコミュニケーションの中で、いったいどうやって彼らなりの共同性−恒常性を維持しているのだろうか。それが「じぶんをやつす(自己主張せず目立たないように自己を相対化する)コミュニケーション」である。

 若者といえば、自分が何者かわからず自分に期待をもち、人に認めてほしいがゆえに、背伸びしたり、自分を誇示したりするというのが、これまでノーマルだった。が、昨今の若者ではこれが強く避けられている。自分で自分を自慢する奴は鼻持ちならない奴なのである。

 一方で、自分をやつすことは、通常の儀礼的コミュニケーションの中でこれまでもなされてきた。


ゴフマンがコミュニケーションにおける社会的なルールとして記述した「儀礼」とは、互いの「フェイス(面子)」を傷つけないように、自らを互いに謙遜し合うことを意味している。相手を誉めるのが礼儀であり、自分が誉められればそれを否定してみせてへりくだるのが儀礼である。しかし、若者たちの儀礼は、通常の儀礼を超えて、一切の自己顕示を抑制する。

 謙遜し合ってばかりでは、自分が何者なのかは語れない。自分が何が好きで何が長けていて、何を考えているか少しは自己評価に関わることを話さなければ、互いのコミュニケーションは深まっていかないだろう。しかし若者のコミュニケーションの中では、これが決定的に抑圧されている。それゆえ自分のことを語りたいと思う若者は、手足をもぎ取られたような状態になる。またとりわけネガティヴな話題はノーである。もちろんこれとてお笑いのフレームにのせれば全面開示さえできる。しかしそのフレームで表出された場合、メタレベルは「笑って下さい」になる。結局応える方は、真っ直ぐ受け取ることができなくなるのである。
 

 もちろん、そもそもコミュニケーションには困難が存在し、ストレートなコミュニケーションには多大なリスクが存在する。ゴフマンは、ほとんどのコミュニケーションは楽しいものではなく窮屈なものだと述べている。

 人は、自分と人が同じような考えをもっているという幻想をもって人と交流しているので、意見やセンスが異なることにショックを受ける。とりわけ自分のアイデンティティの核に関わることである場合、意見の対立は関係の破綻を生むくらいのリスクとなる。

 
 ドイツの社会学者ジンメルも同様にコミュニケーションがしばしば喧嘩になることを指摘した。それゆえできるだけ現実の利害関係などに触れない抽象的、趣味的な話題でなされる当たり障りのない「社交」の必要性を説いていた。

 しかし、それは(中略)互いが無害であることを確認し合うメタコミュニケーションの連続である。


posted by R_Partner at 17:59| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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