2016年11月15日

セクシュアリティ

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 ジョン・ギャノンとウィリアム・サイモンは、ミシェル・フーコーと同様、セクシュアリティの意味は社会的に生成されると強調し、とくに身体があらゆる種類の本質的な意味に染められることに注目する。(中略)

 ギャノンとサイモンによると、フロイトとフロイト派精神分析は、身体構造(アナトミー)は宿命であるという発想からうかがえるように、身体と自然の関連性を強調しすぎている。私たちが身体に付与する意味は、時代や文化によって異なり、身体の露出や接触に対するタブーも変化する。また、性科学者たちも性行為ばかりに目を向けすぎ、性行為の社会的意義の変化についてはほとんど考慮にいれていない。フーコーと同じようにギャノンとサイモンが主張しているのは、性行為とは社会的・文化的設定があってはじめて意味をなすものであり、性行為が合法化不法か、同性愛か異性愛かは、その設定しだいなのである。


 現代フェミニズムの緊張の1つは、男女間の異性愛セックスがどのように家父長制の権力関係の影響下にあるかを分析しつつ、しかし同時に女たちの能動的な生の活力としてセックスを捉えようとしたことにあった。こうした朝鮮は、1960年代以降のリバタリアン思想や、いわゆる「性革命」の出現という文脈に照らしてみる必要がある。異性愛や同性愛や欲望の議論がオープンになり、性の健康を実現し性についての無知を一掃することが、現実の目標となったのである。このような枠組みのもとで、初期の第二波フェミニストは、非難を受けない性行動の権利を要求し、女性を欲望の客体ではなく主体として捉える方法を模索しはじめた。しかし残念なことに、異性愛について語ること自体がしだいに躊躇されるようになり、家父長制の言語から解放されて欲望を表現する新たな方法を見いだそうとする女たちの意思は背後に退き、やがて覆い隠されてしまった。

 女たちにとって、異性愛はこれからも妊娠の不安や、起こりうる結末にいかに対処するかにつながっていくだろう。おそらくフェミニストたちは避妊と妊娠中絶をめぐる論争に集中しすぎて、自分たちの言葉で欲望を語りうる、性の将来の想像をおろそかにしてしまった。初期の女性解放運動ではセクシュアリティについてさまざまな議論が交わされ、重要な文書も数多く記されたのだが、欲望を語るという問題は未解決のまま残されたのである。

 アン・コートの「膣オーガズムの神話」(Koedt 1968=1971)は重要なパンフレットで、そのコピーはアメリカ、ヨーロッパを超えて何千部も出回った。コートは、男性器の挿入の優越性はまやかしだと主張し、女性の性的興奮の中心はクリトリスにあると宣言した。その発表当初から、論者たちはコートの主張は行きすぎである、膣には事実上まったく感覚がないという彼女の主張は不正確であると批判してきた。これらの批判はたしかに正しいが、コートが女性の性的反応についてのフロイト派の概念を脱中心化する意図をもっていたことを、忘れてはならない。フロイト派の概念は、突きつめれば、女性は消極的で受動的、男性は行動的で略奪的と見なすものだった。



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