2016年10月28日

スーザン・M・オーキン『正義、ジェンダー、家族』

正義・ジェンダー・家族





現代の英米圏における主流の正義論は、多分に専業主婦の妻をもつ既婚男性についての理論であった。(p. 178)


ロールズが提起した公正としての正義の理論によって、わたしたちはジェンダー問題に挑むための真に有望な議論の道筋を見出すことができた。それは、ロールズの議論から「家長」という前提を取り除くことである。しかし、そのためには、リベラルな思想が現在に至るまで長らく根源的なものと捉えてきた、ある種の二元論の問題点を暴き出すとともに、その詳細を明らかにしなければならない。すなわち、政治的生活と市場という「公的」な世界と、家族的生活と個人的関係という「私的」で家内的な世界を峻別する二元論である。この章でわたしは、真に人間性を備えた fully humanist 正義の理論は、ここでいう公私二元論についての徹底的な批判的検討を経ずには達成できないことを主張したい。このような作業を引き受けるにあたって、多くの専門分野にわたるここ20年のフェミニズム研究の成果がきわめて有用と思われる。キャロル・ペイトマンが言うように、「公私二元論は…、究極的には、フェミニズム運動が取り組んできた課題そのもの」(Pateman 1983)なのである。(pp. 178-179)


公私二元論は男女の不平等を生み出し強化する循環構造をみえにくくする点で誤解を与えやすい概念であるということを、四つの論点から主張していく。第一に、常に政治的なものの典型として理解されてきた権力が、家族生活にとって中心的な重要性をもっているということ。第二に、家内領域はそれ自体、政治的決定によって形づくられるものである以上、国家が家庭生活に介入するか否かが選択可能であるという発想がまったく意味をもたないということ。第三に、わたしたちがまさにその場所でジェンダー化された自己になるという意味で、家族は疑いようもなく政治的な存在であるということ。そして第四に、ジェンダー構造下の分業は、女性が他のすべての生活領域へと進出するのを妨げる現実的かつ心理的な障壁を作り出すということ。(p. 179)


 ウォールツァーの理論もアンガーの理論も、公私二元論とジェンダー構造への挑戦に先鞭をつけたにもかかわらず、さほど重要な成果を上げることができなかった。にもかかわらず重要なのは、双方の理論家が描いた平等主義的な社会の青写真にとって、現在の両性間の権力と責任、権利と役割の分配に根本的な疑問を投げかけ、その再編を訴えることが不可欠であり有効であったという点にある。政治学、法学、社会心理学、そして歴史学におけるフェミニスト理論は、この挑戦を長らく引き受けてきたのである。(p. 201)


 「個人的なことは政治的である」というスローガンは、公私二元論に対するフェミニスト的批判の中心的なメッセージである。それは、現代のほとんどのフェミニズムの中心をなす考え方である。19世紀から20世紀初頭にかけて、女性参政権の獲得と妻の法的劣位の解消を求めた彼女たちの多くは、男性による女性の政治的な支配と個人的な支配との関係に自覚的であった。にもかかわらず、1960年代に至るまで、女性が家族のなかで担う特別な役割について疑問を投げかけた者はほとんどいなかった。投票や教育機関における平等な権利を主張する一方で、多くの女性たちは、家族に深くかかわる女性が当然にそのケア責任を担うものという広く流布していた想定を、自然で避けられないものとして受け入れていた。(p. 201)


 個人的なことの政治性に関わるもっとも早い主張は、家族は女性の抑圧の根本的な原因であるから「破壊」されなければならないとする、1960年−70年代のフェミニストたちのラディカルな主張までさかのぼる。初期フェミニズムのこうした反家族的性格は、フェミニズムに反対する勢力のみならず、「保守」フェミニストや「バックラッシュ」フェミニストと呼ばれる陣営によって誇張され、利用されてきたと言える。そうした人びとは、フェミニズムの主張全体を攻撃したり、あるいは、自分たちに都合のよい部分を除くすべてを攻撃したりするために、特に家族の問題について騒ぎ立ててきた(Stacey 1986)。しかし、現代の多くのフェミニストは、ジェンダー構造化された特定の家族形態を批判の俎上に載せてきたものの、あらゆる家族形態を攻撃してきたわけではない。「家族」という語は、あらゆる親密性によってつながり集まった人びとを包摂するよう定義されるべきとして、フェミニストの多くが、はっきりと同性結婚を支持しているし、ほとんどのフェミニストが仕事と家庭という二重の負担か家族を諦めるという二者択一の間で選択を迫られることを拒否している。わたしたちは家族という制度を諦めることを拒否するし、両性の分業を自然で変えられないものとして受け入れることを拒否する。さらに、ジェンダーが社会的構築であることが理解されるにつれて、フェミニストは家族集団や家族実践がいかに変革の可能性に開かれているかをますます認識するようになってきた。家族は、決してそのジェンダー構造と不可避に結びつけられているわけではないが、こうした考えが疑問に付され、新しい家族のかたちや伝統的でない分業のあり方が、単に認識されるだけでなく推奨されるようにならない限りは、家内的な領域においても公的な領域においても女性の平等を望むことはできないだろう。(pp. 201-202)


 セクシュアリティ、家事、子どものケア、そして家族生活にかかわる個人的な領域の政治性は、ほとんどのフェミニズム思想の基礎に位置するようになった。異なる政治的立場から、多様な学問分野のフェミニストたちは、女性の家庭での役割と職場における女性の分離と不平等のあいだの、また、ジェンダー化された家族のなかで社会化されることと女性の抑圧にかかわる心理学的な側面とのあいだの、密接で複雑な関係を明らかにするとともに、分析をすすめてきた。わたしたちは、長らくほとんどすべての政治理論を支えてきた想定に対して、絶えず強烈な疑問を投げかけて続けてきた。それはすなわち、家族的・個人的生活にかかわる領域は、その他の社会的領域のすべてからすっかり切り離されていると考えることは、まったく正当であり議論の余地さえないという想定である。

 しかしながら(中略)従来のフェミニストによる議論は、現代の多くの政治理論家が語る正義と十分に接続されてこなかった。以下でわたしは、個人的生活と家族の本質的な政治性に関するフェミニズムの中心的な主張について議論していくことで、家庭生活は国家と法制度によって正義に適ったものになり、その正義を強固なものにできるという主張を展開したい。(pp. 203)


家族と個人の領域はその他の領域と峻別でき、国家は家内領域へと介入することを控えることができるし、またそうすべきであり、それゆえ政治理論は正当にこの点を議論の外に置くことができるという、昔から信じられいまもなお生き残っている想定を、現代のフェミニズムは厳しく批判し続けている。これに対して、公私二元論を批判することと再構築することの双方が、フェミニズムが未来に向けて取り組むべき困難な課題なのである。(p. 205-206)


 ここでわたしは、伝統的な公私二元論に挑戦するフェミニストの多くが何を主張していないかについて指摘しておかなければならない。というのも、実際、少数のフェミニストはこれを主張しているからである。二元論を批判することは、必ずしも人間の生活におけるプライバシーの価値やその概念自体の有用性を否定するものではない。また、公的な領域と私的な領域のあいだに何ら意味のある境界を引くことができないと主張するものでもない。わたし自身も含めた多くのフェミニストは、個人的なことと政治的なことを単純に、ないし全面的に同一視しようとしているわけではないのである。(p. 206)



posted by R_Partner at 18:09| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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