2016年08月25日

宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない」

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宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない−−震災に向き合う思想の準備に向けて」


渋谷の終わりに象徴される「スーパーフラット」化と軌を一にして、21世紀に入ると東京都石原真太郎都政を皮切りに店舗風俗の一斉摘発が連続してなされ、程なく全国化します。最近では東京都と沖縄県を皮切りに暴力団排除条例が全国化しつつあります。組関係者への便宜供与を不動産物件の売買や賃借を含めて禁止するもので、憲法違反の疑いがあるからなのか国会審議を回避する条例化がなされています。

 これは2001年9月11日の同時多発テロ事件以降に拡がった、僕が「不安のポピュリズム」と呼ぶ世界的流れの一環です。日本に限れば、83年頃から拡がる「法化社会」化の流れの仕上げに当たります。(中略)

 90年代になると「不安のマーケティング」を背景にサキュリティ産業が拡大します。特に90年代半ばのオウム事件後、街のあちこちに監視カメラが設置され始めます。(中略)83年というとコンビニ化(セブン−イレブンの店舗増加とPOS導入開始)開始(82年)の直後ですが、隙間や余剰の消去という意味での「スーパーフラット」化の出発点です。

 「法化社会」化と平行するこうした「スーパーフラット」化は、9.11以降の全世界的なセキュリティ化の流れに先だって、僕たちが「不安のマーケティング」と「不安のポピュリズム」を通じて市場と行政への依存を深め、逆に共同体自治による自立を失っていくプロセスを示しています。「16号線的風景」化としての「スーパーフラット」化も同様に、市場と行政への依存の深まりと、共同体自治による自立の喪失の、見事な現れです。

 市場と行政への依存の深化と、共同体自治による自立の喪失の、可視的現れである「法化社会」化と「16号線的風景」化。それに駆動される「スーパーフラット」化。この「終わりなき日常」の第三レイヤーは僕たちを幸せにするのでしょうか。


 83年から展開し始めた「法化社会」化は、95年のオウム事件を経て96年以降一挙に進みます。82年から展開し始めた「コンビニ」化やそれに続く「ロードサイドショップ」化は、96年のホットスポット消滅以降一挙に全域化します。人々はあまり意識しませんが、96年こそ「終わりなき日常」の第三レイヤーが完成した年です。つまり「解放区」が消滅した年だということなのです。

 僕はこの「解放区」を「ホームベース」と呼んできました。(中略)でも「16号線的風景」化によって消えました。「スーパーフラット化=ホームベース消滅」なのです。

 奇しくも96年はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットし、自称AC(アダルトチルドレン)が巷に溢れる時期。援交現場も自傷系少女だらけになりました。自意識の問題が以前に増して意識されるようになります。僕には「ホームベースの消滅」が「自己の時代」をより先鋭化させたと睨んでいます。


「法化社会」化と「16号線的風景」化による「場所のスーパーフラット」化に続いて、「人のスーパーフラット」化が拡がります。77年から始まる「自己の時代」以降、ナンパ系とオタク系の間には優劣関係があると思われてきました。ところが96年から援交を含めた性愛への過剰コミットがイタイと感じられ始めます。(中略)

 こうしたナンパ系の地位低下と同時期にオタクの地位上昇が生じます。(中略)ナンパ系がイタくなり、オタク系がコミュニカティブになった結果、96年以降ナンパ系とオタク系の間に優劣関係を想定するコミュニケーションが一挙に廃れます。(中略)

 こうしてナンパ系がオタク系の数多あるトライブの一つになるという「横並びの島宇宙化」が顕著になります。(中略)副作用も生じました。第一に(中略)創造者ならざる消費者的なオタクだらけになったという問題です。

 第二に(中略)ナンパ系サイドにも問題が生じました。性愛に対する期待水準の低下です。

 (中略)

 80年代に新興宗教系に入信する人が急増するのですが、内訳を見ると風俗・水商売の女の子の割合が非常に高かったのです。僕の解釈は、性愛と宗教はともに「包括的承認」を与えるツールとして機能的に等価だから、というもの。だから性の期待外れが宗教への要求を生むのだと思います。


 性愛にホームベースを見出せなかった者にとって、異世界や宗教が新たなホームベースとして期待された。それがオウム真理教ブームの重要な背景だと思います。

 だからこそオウム事件は、宗教にホームベースを見つけようとした者たちに衝撃を与えました。少なくとも短中期的には宗教にホームベースを見出すことは不可能になったと思えました。



ラベル:政治 社会学
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宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない」まったり革命、スーパーフラット

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宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない−−震災に向き合う思想の準備に向けて」



 盛り場とは文字通り「日常」に対する「非日常」を意味しました。そこで人々は日常の意味を脱ぎ捨てて自由になります。人類学的な言い方をすると、ハレとケの時間的交替を空間化したものです。盛り場に行けばいつでもハレを享受できるわけです。ところがディスコは「非日常」ですが、クラブは逆に「日常」です。学校や家庭が緊張を強いられる「非日常」なので、演技をやめて脱力できる「日常」に戻るべく、クラブに来るのです。

 デートクラブもクラブと同じで、女子中高生にとっては、飲み食いしてビデオを見ながら寝転がって寛ぐ、感情的安全の場でした。その意味で、クラブもデートクラブも「盛り場」ならざる「癒し場」でした。お門違いの意味追求に駆り立てる学校や家庭や地域から離脱し、ストリートの「癒し場」でまったり寛ぐ。「盛り場」ならざる「癒し場」としてのストリートの新たな姿に、可能性を見出した僕は、「まったり革命」を唱導しました。

 そして「まったり革命」を「意味から強度へ」「学校化空間から第四空間へ」などとパラフレーズしていました。学校化空間とは学校的価値に一元化された家・学校・地域の全体を指し、第四空間とは家・学校・地域とは別の空間という意味です。(中略)


 ところが、96年に援交ブームとルーズソックス着用率がピークを迎えたのを境にストリートは急に「死んで」行きます。(中略)社交的な子がセンター街には行かずに、首都圏だと町田・柏・西船橋・浦和・立川に滞留するようになると同時に(地元化)、北海道から沖縄まで同時多発的に、24時間出入り自由な「若衆宿」的な友達の部屋にタムロするようになります(お部屋族化)。

 (中略)

 変遷してきた「盛り場」の最後が渋谷で、そこは実は「癒し場」だったと言いました。でもそこは最後のホットスポット(特別な場所)でした。クラブがあり、デートクラブがあり、109があり、コギャルや改造四駆野郎が集まり、大人から見ると「祭り」みたいでした。いま渋谷に行くと、マツキヨがあり、ビックカメラがあり、ダイソーがあり、街の風景も歩く人の風体も町田や立川と変わらない、完全にスーパーフラット化しました。

 (中略)全てが「16号線的」になりました。これは一般にグローバル化が帰結したデフレ経済の結果だとされますが、「地元化/お部屋族化」という文化現象の変化が大きいのです。

 96年を過ぎると、ルーズソックスも援交もクラブも一挙に退潮し、地元化/お部屋族化します。ホットスポットが消えてスーパーフラット化します。それまで「終わりなき日常を生きろ」と語っていた僕は(中略)この言葉を語らなくなります。「終わりなき日常」が消えたからではない。「〜を生きろ」と語る際に前提としていた処方箋である、「癒し場」での「まったり革命」が、無効になったからです。

 むしろ、「盛り場」も「癒し場」も欠いたスーパーフラットな「16号線的風景」の全国化こそが、「終わりなき日常」の第三レイヤーです。第一レイヤーが「自己の時代」の永続。第二レイヤーが「様々なる意匠」の永続。これらから逃れるべく、僕は「まったり革命」的な「癒し場」としてのホットスポットに希望を託したのですが、それが消えた挙げ句に、前面に出てきた第三レイヤーが「スーパーフラット」の永続というわけです。


 

絶望から出発しよう (That’s Japan)




まぼろしの郊外―成熟社会を生きる若者たちの行方 (朝日文庫)





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宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない」悪い共同体

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宮台真司「『終わりなき日常』は永久に終わらない−−震災に向き合う思想の準備に向けて」


原子力発電はコスト的にもリスク的にも環境的にも非合理的です。そのことは広く知られています。ではなぜやめられないのか。「全体の利権」を正当化する「様々なる意匠」が「空気の支配」で現実化しているからです。それゆえに、諸外国では合理性が納得された新たな脱原発的な全体プランが提示されても、それを正当化する「様々なる意匠」が「空気を支配」するに至っていないので、全てが妄言に聴こえるわけです。

 そこでは、何が真理なのか、何が合理的なのか、何が妥当なのかを、どんなに議論しても意味をなしません。むしろ、そうした議論にコミットしようとすると、「空気(の支配)を読めないヤツ」という烙印を押されて、コミュニケーションから外される結果、一切の影響力を行使できなくなるのです。かくして〈知識を尊重する作法〉ならざる〈空気に縛られる作法〉がコミュニケーションを覆う〈悪い言説空間〉が、全てを支配します。

 こうした傾向は若い世代になる程悪化します。そこでは空気が読めないヤツが「KY」と呼ばれます。(中略)共同体が空洞化すれば個人化が進むので空気から自由になるようにも思えますが、実際には違います。共同体的作法が変わらない中で共同体が空洞化すると、逆に人々は強迫的に共同体主義的に振る舞うのです。

 (中略)脱原発の運動が単に原発の技術的非合理性に照準するだけでは何も変えられないでしょう。どんなに技術的に非合理でも「原発をやめられない社会」、つまり〈空気に縛られる作法〉が蔓延する〈悪い共同体〉に、どう対処するかを考えねばなりません。

 空気からの自立を処方箋とするか、空気への依存の利用を処方箋とするか、それを組み合わせるか、慎重な検討が必要です。僕は空気からの自立はあり得ないと思っています。いずれにせよ、何もかもが空気ベースの「様々なる意匠」でしかあり得ない〈悪い共同体〉が今後もかなりの期間続くだろうこと。これが「終わりなき日常」のもう一つのレイヤーです。




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