2016年07月25日

竹村和子『愛について』

愛について―アイデンティティと欲望の政治学





第4章 アイデンティティの倫理−−差異と平等の政治的パラドックスのなかで



語りは慣習の反復と、慣習の亀裂の両方を出現させる。(p. 209)

アイデンティティの「政治」は、アイデンティティの「倫理」へと−−すなわち人と人の〈あいだ〉をあつかう政治は、自己のなかの〈あいだ〉をあつかう倫理へと−−接続していかなければならないのではないか。(P. 211)

語りという、語り手と聞き手のあいだの間主体的(インターサブジェクティヴ)な政治的行為は、自己への応答−−自己で非ざる自己への応答−−という内主体的(イントラサブジェクティヴ)な倫理的行為として体験され、そして自己の内部で生じた差異は、ふたたび語りという間主体的な係争へと連鎖していく。(P. 212)

 言説権力が行使される場として、フーコーは「告白」の伝統を挙げる。「裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において……また自分自身に向かって」、人は自分の欲望を告白する。告白は「権力関係のなかで繰り広げられる儀式」である。なぜならフーコーが言うように、そこに透明な聞き手ではなく、「告白を要求し、指示し評価し、そしてまた裁定や処罰や赦免や慰めや和解のために介入する権威としての相手が(潜在的に)いなければ、人は告白しないからである」。ゆえに支配権力を媒介し、告白を誘導する者は、語る者ではなく、聞き取っている者となる−−たとえ聞き手が語り手を「理解」し、語り手に「同情」したとしても。
 したがって、これまで否定的なしるしがつけられていた名づけをつかって、その名づけを換骨奪胎するためにおこなう「アイデンティティの政治」も、その名づけが既存の抑圧的な〈言語〉による定義にとどまっているかぎり、そこには「換言不可能な」他者性はあらわれない。また「アイデンティティの政治」が、「告白」と同様に、聞き手を支配的な言語の内部にとどまらせているかぎり、たとえ聞き手が語り手を「理解」し、語り手に「同情」したとしても、支配権力の配置は変わらない。(P. 223)

(ナンシー・フレイザーは)経済的/物質的なものの「再配分」と文化的なアイデンティティの「承認」のあいだにジレンマが存在していることを指摘する。承認の政治が何らかのかたちで「集団の特殊性を想定する」−−つまり「差異化」を求める−−ものであるのに対し、再配分は「集団的特殊性を補強するような経済配置をなくそうとする」−−つまり「脱差異化」を求める−−ものであるからだ。フレイザーはこのジレンマを克服する視点として、経済的な再配分と文化的な承認の双方に、それぞれを分割する区分をもうける。彼女によれば、再配分であろうと承認であろうと、それが「肯定的(アファーマティヴ)」な場合は、既存の集団の表面的な再配置にすぎず、各集団の差異は温存されて、そうして温存されたままの差異にもとづく再配分は、「誤認」のバックラッシュを生じさせることになる。だが「変容的(トランスフォーマティヴ)」な場合は、生産関係あるいは承認関係に深い再構造化をもたらし、集団の差異は曖昧になって、そのように液状化された差異に対してなされる再配分は、誤認形態の是正に役立ちうる。
 このフレイザーの議論で特筆すべきことは、「政治」と「経済」を積極的に結びつけたことである。彼女は、承認の政治の次元だけでは解決することが困難で、さらに包括的な共約性(したがってさらに異議申し立ての契機を封じ込める共約性)に回収されてしまいがちな差異/平等の問題が、経済的。物質的配置の再構造化と不可分な関係にあることをまず確認し、その両者を分析的に分けて思考しつつ、両者の連関性を模索しようとした。いわばフレイザーは、「階級の政治」と「アイデンティティの政治」−−あるいは、経済的再配分を主眼におく「社会的左翼」と、言説を問題化する「文化的左翼」−−のあいだの近年の「分裂を克服して、左翼の統一戦線の基盤をつくりだそう」としたのである。(中略)
 だがフレイザーが承認の政治において積極的な価値を与えた「脱構築」も、それがどのような脱構築であり、どの程度の脱構築なのかは検証しなければならない事柄である。(PP. 226-227)

ある集団にべつの差異化軸を導入して、集団を分割することによって集団的アイデンティティを解体しようとする戦略は、最初の集団的アイデンティティを解体することはできても、新しく細分化された集団的アイデンティティ(有色人女性やレズビアン等)は温存したままである。そしてたとえその内部分割を限りなくおこなっても(中略)ゼロの地点を超えることはない。つまり否定的な意味がつけられたアイデンティティを転覆することにはなりえない。バトラーの言葉を使えば、「「女」というカテゴリーに「人種・階級・年齢・民族・セクシュアリティといったさまざまな要素を単純に充填していけばよい」というのではなく、「カテゴリーは本質的に不完全なものだと仮定することによってのみ、そのカテゴリーをさまざまな意味が競合する永遠に使用可能な場として機能させることができる」のである。
しかしフレイザーは、アイデンティティをつねに差異化の「結果」として理解しており、アイデンティティの過程性−−つまり差異化の系譜−−を問うことはしない。言葉を換えれば、アイデンティティ構築の不安定さ、不完全さには注意を払わず、むしろアイデンティティの虚構性を認識することを、悪しき「脱構築」として語気強く弾劾するのである。(PP. 230-231)

集団的アイデンティティは、それだけでは直接に害をなしたり、利益を与えるものではない。(ポスト)唯物論者のモニク・ウィティッグが述べているように、「(総称としての)女は単なる想像上の組成物」(「神話」)にすぎず「わたしたちにとって存在しないもの」だが、「(個々の)女たちは社会関係の産物」であって、政治的、経済的なカテゴリーとして機能する「階級」である。集団的アイデンティティを個人が引き受け、個人が内面化し、その個人のアイデンティティとなったとき−−すなわち、集団的アイデンティティが個人化されたとき−−権力関係は発生する。」(p. 232)

わたしたちにとって残されていることは(中略)親密さの領域におけるアイデンティティ形成を、「承認」以外の観点で捉えることである。それはアイデンティティを、自己の外の他者との関係ではなく、自己のなかの他者との関係で再考すること−−すなわちわたしのなかの「欠如しているもの」、「(公的事柄としては)不適切と考えられ自動的に私的事柄にされて」排除されたものの発現として捉えること−−である。そのとき差異は、他者(他の人)との差異ではなく、自己のなかの差異というかたちで現れ、おそらくそうして発現する自己の内部の「文の係争」(リオタール)こそが、承認という「文の体制」を組織化することなしに、人と人の「あいだ」に現在的で偶発的な交渉の可能性−−つまり永遠に係争中のアイデンティティ形成−ーをもたらすものとなるだろう。」(PP. 241-242)

「内部で抹消されたものは、外部からふたたび戻ってくる」のである。だから、性差別者や異性愛主義者や人種差別者は、女性性やホモエロティシズムや「黒さ」を知っている人間であり、それらは彼/女たちにとって未知(アンファミリア)なものではなく、非常に親しい(ファミリア)もの−−だからこそ、親しさの領域からは何としても排除しなければならないもの−−なのである。
 ひるがえって、女、同性愛者、有色人という、いわゆる承認されないアイデンティティをもつ者は、自己の外部に放擲すべきものを、自己の内部にとどめおく(状況に陥る)ことによって、嫌悪や恐怖を自分自身にふりむけていく。テイラーが言う「自己卑下」や「低い自己評価」や「劣等的自画像の内面化」をおこなうのである。だがここでさらに考慮すべきは、承認されないアイデンティティをもつ者は、外部に投影されるべきものを自分自身の身に帯びることによって、逆に、規範として承認されている内部性には、けっしてアクセスすることができないと解釈されることである。外部性という負のしるしがつけられた者は、内部的な属性をもつ能力はないとみなされる−−二流市民ゆえに、病人ゆえに、犯罪者ゆえに、女は男の属性をもちえず、同性愛者は異性愛者のような家庭を営むことはできず、有色人は自立した市民にはなりえない等々と断定されていく。
 したがって平等な承認の政治は、承認されている者と承認されていない者がそのアイデンティティを保持したまま、その独自性を美学や文化や習俗や風習として本質主義的に主張して、優位−劣位という既存の価値基準のみを変容させるのであれば、自己と他者を分かつ切断線はますます強固に固定されることになる。(pp. 245-246)





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2016年07月11日

ジュディス・バトラー『生のあやうさ』

生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学




第2章 暴力、哀悼、政治


最近のグローバルな暴力に照らして私に取りついて離れない問いがある。誰が人間としてみなされているのか? 誰の生が〈生〉と見なされているのか? そして究極的には、何が【生をして悲しまれるに値するものとなるのか?】(p. 48)


女性たちや性的マイノリティを含むさまざまなマイノリティたちが、集団として暴力の被害を受けてきたこと、たとえ暴力が実際に行使されない場合も、その可能性にさらされてきたこと、それは間違いない。このことが意味するのは、私たちのそれぞれが、自分の身体の社会的可傷性のために、ある面では政治的な存在でありうるということだ。それは欲望の場所、身体が傷つきうる場であり、自らを主張すると同時に自らをさらす自己開示の場でもある。喪失と可傷性は私たちが社会的に構成された身体であることの結果なのではないか。他者と触れあい、その愛着を失う危険を冒しながら、他者にさらされ、そうした露出のせいで暴力を受ける危険を冒しているからではないのだろうか。(p. 49)


人が喪に服するのは、喪失という経験によって自分が、たぶん永久に変わってしまったことを受け入れるときなのではないか。変化の結末のすべてを人はあらかじめ知ることができないのだが、おそらく喪は、ある変化を経るのに同意することと関係がある(おそらくある変化に【屈服】すると言うべきかもしれない)。(P. 50)


同時に、多くの身体が自分自身のもので、身体的な統合性と自己決定権の主張がある。私たちの身体が自分自身のもので、私たちが自分の身体に対して自律する権利を主張できること、これはとても重要なことだ。この主張は、レズビアンとゲイが性の自由を主張する権利、トランスセクシュアルとトランスジェンダーが自己決定権を主張する権利、そしてインターセックスが医学や精神医の強制的介入から自由であると主張する権利、すべてに共通した真理だ。肉体や言語による人種主義的な暴力から自由である権利、フェミニストが主張する再生産への権利、経済的・政治的な抑圧や植民地支配・占領下での労働をおこなう人びとにとっても、もちろん同様に真理である。自律に訴えることなしに、こうした主張をすることは、不可能ではないにしても難しい。私はここで、そうした主張をやめようと言っているのではない。これらの権利を主張すること、それはすべきだし、しなくてはならない。私はまた、こうした主張は躊躇しながら戦略的に行うべきだ、と示唆したいわけでもない。あらゆる点から考えて、そうした主張は性に関わる問題やジェンダーにおけるマイノリティや女性、人種や民族的マイノリティといったほかのあらゆるカテゴリーを横断する者たちの自由と庇護を最大限に伸長する運動にとって、もっとも基本的な希求となるべきものだ。 

 しかし私たちにとって表明し防御すべき基本的な希求が、他にもあるのではなかろうか?(中略)

 身体が不可避に孕む死と可傷性と行為能力(エージェンシー)。私たちの肌と肉は他者のまなざしにさらされているだけでなく、触覚と暴力にも露出しており、身体があることによって私たちはそのような他者たちの行為媒体(エージェンシー)とも手段ともなるリスクを抱えている。たしかに私たちは自分自身の身体をめぐる権利を求めて闘うが、私たちの闘う根拠である身体そのものが、実は私たちだけのものであったためしはないのだ。どんな身体も公的な次元をもっている。公共圏における社会的現象のひとつとして構築された私の身体は、私のものであって、同時に私のものでない。(p. 58-59)



暴力が最悪の接触であることは間違いない。それは人が他の人間によって傷つけられやすいことを、もっとも恐ろしいやり方で示すことにほかならないからだ。他人の意思に自分ではどうすることもできずに従わされ、他の人間が思い通りにすることによって自らの生命そのものが抹殺されること。私たちが暴力を犯すとは、他の人間に対して行いを起こすこと、他者を危険にさらすことであり、他者に損害を与え、他人を除去しようとすることだ。ある意味で私たちは皆、このように暴力によって傷つけられる可能性とともに生きている。それが肉体をもった生の一部分である他者に対する可傷性であり、私たちには予測できない、どこかからやってくる突然の呼びかけに対する傷つきやすさである。そして特定の社会的・政治的状況の下では、この可傷性が増幅されるのだ。とくに暴力が生の様態になり、自己防衛の手段が限られているような状況においては。

このような傷つきやすさに留意すること、それが軍事力に頼らない政治的解決を主張する根拠となりえるし、他方、この可傷性を幻想(体制や組織によって支えられた支配幻想)によって否定することは、戦争をたきつける燃料となりうる。だが私たちは、この傷つきやすさを無視できないだろう。私たちはそれに付き合い、寄り添いさえして、こうした身体的な可傷性、すなわち、私たちが消滅させられたり、他者を喪失したりする状況を念頭に置き続けることで、どんな政治が可能になるかを考え始めるのだ。私たち自身がこうした状況にいま突然に凄惨なかたちでさらされているとき、こうした身体的可傷性が地政的に不均衡に配分されていることについて、私たちは何かを学ぶことができるだろうか?(p. 62-64)


悲しみが何か恐れるべきものであるとき、私たちのその恐れは悲しみをすばやく解決する衝動を引き起こし、喪失を回復し、世界を以前の秩序に戻す力を持った行動の名の下に悲しみを追放しようとするだろう。世界は以前は秩序だっていたのだという幻想をふたたび掻きたてながら。

 悲しむことから得られるものが何かあるだろうか。悲しみにとどまろうとすること、悲しみの耐えがたさにさらされ続け、悲しみを暴力によって解決しようとはしないことから、何か得られるものが? (中略) 第一世界にいながら居場所を失うという体験が、身体的可傷性の世界における配分のされ方がきわめて不均衡であることに目を開かせる、そのような条件となりうるか? しかしこうした可傷性に目をつぶり、それを追放し、ほかのあらゆる人間的配慮を犠牲にして自分たち自身を安全にしようとすれば、それは私たちが自分の生き方を決め、道を見出すもっとも重要な資源のひとつを捨ててしまうことになるだろう。(P. 64-65)



私たちは、ないがしろにされてしまった必要や要求が何なのかを悟らないかぎり、窮乏や欠損としての可傷性を理解することはできない。そのような状況におかれた子どもたち、彼女/彼らには誰も頼りになる者がおらず、不十分な支援しか受けずに放棄されている、そのような存在としてあくまで認知されなくてはならない。このような人生の最初期にある搾取の状況、利用され、挫折を余儀なくされ、否定される状態がいかにして生まれているのかを見ないで、人がどうして抑圧されているのかを理解するのは、不可能ではないまでも難しいだろう。原初の可傷性という条件、たとえそこに誰もいなくても、他者の接触にさらされているという状態、自分たちの生に何の支えもない状況、そうしたことが初発の必要と援助がどこにもない生活のありようを示しており、どんな社会もそれに寄り添わなくてはならないはずだ。それぞれの生には異なった仕方での維持や支援の方法があり、人間の物質的な傷つきやすさには、地球上の場所により、きわめて大きな差異が存在する。世界のなかには周到に保護された生も存在するし、彼らの聖域を侵すという行いだけでも戦争を発動させるのに十分なほどだ。ところが他の生は、そのように速やかで怒りに満ちた支援など望むべくもないし、だいいち「悲しみにさえ値しない」と見なされている。(P. 67-68)


最後の問いは、レズビアン、ゲイ、それに両方のセクシュアリティをもつ人びとについての研究が、性的マイノリティに対する暴力に関して問うてきたものだ。トランスジェンダーの人びとなら、彼女/彼らだけがとくに迫害を受け、ときに殺されることもあったときに、問題としてきたような問い。インターセックスの人びとの場合はその萌芽期に、人間とはどうあるべきかという規範によって、人間の体とはどのようなものかという基準にしたがって、自らの身体に望まぬ暴力を受け、求めて来た問い。疑いなくこの問いは、ジェンダーとセクシュアリティに中核をおいた運動と、身体的な試練を受けている人びとを非難し抹殺する能力をもった人間性の規範に対して闘う努力とのあいだの、深い信頼関係の基礎でもある。(P. 69)


差異に触れるということは、新しい同一化の絆を築き、共通の認識基盤や文化的土壌をつねに想定できるとは限らない人びとが、共同体に所属するとはどういうことなのかを新たに想像させる契機となるだろう。(P. 79)


9.11とその後の出来事によって、多くのアメリカ人が経験したもの、それはたぶん、第一世界観念の喪失とでも言うべき事態ではないだろうか。これはどんな喪失なのか? それは特権の喪失である。(P. 79)


 アメリカ合衆国になされた暴力を私はいくつかの倫理的理由によって非難するし、それが過去の罪に対する「当然の罰」であるとは思わない。しかし同時に私は、今回私たちが経験しているトラウマが、アメリカ合衆国の傲慢さを再考し、より根本的に平等な国際的絆を築くことの重要さを認識する機会であるとも考える。そのためには、この国全体にとって、ある「喪失」が必要である。世界そのものがアメリカ合衆国の主権の及ぶ特権的領域であるという発想を捨て、喪失し、哀悼しなくてはならない。ナルシスティックで誇大な妄想は失われ、かつ悼まれるべきだ。そしてこうした喪失と壊れやすさ(フラジャリティ)を体験することから、これまでとは違った絆をむすぶ可能性が生まれる。このような哀悼によって、私たちの国際関係に対する意識が改変され、この国でも他の場所でも民主的な政治文化の可能性を考え直す契機が生まれる(それが可能になる)かもしれないのだ。

 しかし不幸なことに、現状ではまったく反対のことが起きているようだ。アメリカ合衆国は自国の主権が脆さ(ウィークネス)を露呈しているまさにそのときに、ほとんど時代錯誤とも言えるほどに自らの主権を強弁しているわけだし、国際的支援を必要としているのに、自分が指導者であるとの主張を変えようとしていない。国際協約を自分が破りながら、他の国にアメリカにつくのか、それとも敵となるのか、などと迫る。(p. 80-81)



自分自身の傷つきやすさを否定するという代償のもとに、自らの周りに壁を築き、自己の想像上の全体性を再構成すること。アメリカは可傷性や相互依存、自分が他人の前にさらされる体験を自らにおいては否認し、それらすべてを他者のものとして利用することによって、そうした人間の生にそなわった基本的な特性を自己の「他者」としてしまったのである。
 
 しかも、このような他者性の拒絶が「フェミニズム」の名において起きていること、これはきわめて憂慮すべき事態だ。ブッシュ政権側へのフェミニストの宗旨替えによって、女性の解放という命題がアフガニスタンに対する軍事侵攻の正当化にすりかえられてしまった。このことは政治的主題としてのフェミニズムが、第一世界の無謬性という想定を復活させるために、いかにして使われるかの事例となろう。(中略)フェミニズムの進歩を植民地主義的なプロジェクトの成功によって推し量るのは、どうみても間違いだろう。今日ほどフェミニズムを第一世界の傲慢さから解き放ち、フェミニスト理論と実践の積み重ねを使って、絆や結びつき、連帯や関係が反帝国主義的な平等思想の地平で想像され、生かされるような道を再建することが求められているときはないように思える。(pp. 82-83)


私たちが主張を行うのは、それが当たり前のこととは受けとめられていないからこそあらためて主張しようとするのであって、まさにそれがどんな場合でも尊重されていないからである。(p. 86)


承認をめぐる闘争において私たちは分離した自己に閉じこもっているわけではなく、相互的交換のなかに投げ込まれているのであって、その交換によって私たちは自分の位置から、主体のポジションから放り出され、すなわち、私たちすべてが異なる仕方で承認のために闘っていることを私たちの形作っている共同体そのものが私たちに理解させている(p. 87)


私たちがだれか他人を承認するとき、あるいは自分自身を承認してほしいと頼むとき、私たちは他人に私たちをありのままに見るように頼んでいるわけではない。(中略)私たちが他者に自己の承認を迫るとき、その要請するという行いにおいて、すでに私たちは何か別の新しい存在となっている。なぜなら、私たちはそう他者に呼びかけることによって、もっとも広い意味で言語によって営まれる他者の必要、他者への欲望によって自己構築されるからであり、そのような他者がいなければそれは不可能だからである。承認を求める、あるいは承認を行うとは、人がすでにそうであるようなものとして承認を迫ることではない。それはある生成を願うこと、変化をうながすこと、つねに他者との関係において未来を招き寄せることだ。それは同時に、この承認への闘いにおいて、自分自身の存在を賭けること、自分自身の存在に自らこだわることでもある。(p. 87)


政治的エージェンシーの前提条件として自律した主体を重視することは、私たちをもっと根底のところで結びつけている依存の様態−−私たちの思考と友愛を、私たちの傷つきやすさと親密さと集団的抵抗との源となる、この依存の様態−−を消去してしまうことにならないだろうか。(p. 94)


もし私があなたによって攪乱させられるとしたなら、あなたはすでに私のなかにあることになり、私はあなたなしではどこにも存在しない。私は自分が「あなた」に結びつけられている仕方を見出すことによってしか、「私たち」に達することができない。翻訳しようと試みることによって、しかし同時に、私があなたを知るためには、私自身の言語が壊れ台無しにしなくてはならないことを知ることによって。「あなた」とはこのような自己の拠って立つ地盤の喪失によってのみ、私が獲得する何かである。こうして人間が生まれていくのだ。何度も何度も、それがいったいどんな存在なのかを私たちはいまだ知りえないとしても。(p. 95)



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2016年07月07日

ジュディス・バトラー『生のあやうさ』

生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学




私たち自身が傷つきうる存在であること、他者も傷つきうること、われわれは誰かの意思のままに死にさらされる存在であること、そうしたことのすべてが恐怖と悲しみの原因となる。(中略)もし私たちが暴力の連鎖を止め、暴力に訴えない成果を求めようとするなら、戦争による報復を叫ぶだけではなく、悲しみから何が生まれうるかを政治の問題として問うことは、疑いなく重要なことではないだろうか。(p. 4)


自分とともに他者も傷つく存在であること、そこからもたらされる省察のひとつに、あちら側にも自分が現在知らない、将来もけっして知りえないかもしれない他者が存在しており、その他者たちに私たち自身の生が依存しているということがある。誰か見知らぬ他者に私たちの生が根本的に依存していること、この条件は自分の意思で簡単に葬りさることなどできない。どんなに自己の安全をはかろうとしても、この依存を消すことはできないのだ。(P. 5)


人びとの可傷性はさまざまな仕方で配分されており、それによってある人びとが他の人びとよりも、気まぐれな暴力の犠牲になる確率は高くなってしまう。(P. 5)



傷つくということ、それは損傷について省察する機会となりうるし、その配分のメカニズムを見出し、自分以外のどんな人びとが境界の侵犯や予期せぬ暴力や剥奪や恐怖をどんな仕方で味わっているのかを知る契機となる。(P.5)



第1章 解釈と免責



たしかにこの国が暴力にさらされたことは疑いえない事実だとしても、しかし暴力を受け苦しむことと、自らの苦しみの原因に関係があるかもしれない他者に対して、暴力を受けたという事実だけを元にして無制限の攻撃を加え、さらにそのような報復行為を、自分が受けた傷の大きさによって正当化してしまうこと。この二つのことは、まったく別のことではないだろうか?

ここで強調したいのは次の点だ。暴力を理解する枠組みが経験にともなって出現すること。そしてこの枠組みはある種の問いや歴史的探求を除去してしまう方向に働くとともに、報復攻撃の道徳的正当化としても機能するということ。この枠組みについて考えることが重要であるのは、それが強制的な仕方で、私たちが何を聞くことができるのかを決定するからだ。すなわちこうした枠組みによって、ある見解が出来事の原因を解説し、さらに責任を免除する根拠として示される。この枠組みこそが私たちが違いを聞きとり、それに満足できるかどうかを決めるのである。(P. 23-24)


個人を特定することで、私たちは出来事を広い視点から解釈する必要から解放される。(P. 25-26)


こうした行為を許されない絶対悪として非難するためには、われわれが一方においては犠牲者であり、他方においてはテロを根絶する正義を行っているという情動的構造を維持しながら、自分たちがこうむった暴力の経験という物語を始める必要があるのである。(P. 27)


私たちが前面に押し出さなくてはならない一人称の視点、それは国際政治という領域において、語る「私」の脱中心化をはらむような解釈をあらかじめ排除することにほかならない。この脱中心化とは、私たちが受けた傷の一部分として経験されるものだ。しかし、私たちはその場所にいてはならないとされる。この脱中心化こそ、私たちが再中心化を行うことによって修正を余儀なくされるものである。(P. 28)


次のような問いを発してもおそらく誰も聞いてくれないかもしれない。それでも聞いてみたいのだ。グローバルな枠組みのなかで、別の意味、もうひとつの可能性を見つけて、一人称の語りを脱中心化することができないのだろうか、と。攻撃を受けた物語を語るな、と言っているわけではない。9月11日に始まる物語を語るな、と言っているわけでもない。こうした話は語られる必要があるし、こうした出来事にまつわる巨大なトラウマによって語る能力が大きく削がれながらも、じっさいに語られてもいる。しかしもし私たちが自らをグローバルな行為者として自認しようとするのなら、そしてさまざまな行いがまさに演劇的にせめぎあっている歴史的に創設されたフィールドのなかで私たちが行為しようというのなら、アメリカの単独行動主義が形づくる語りの視野狭窄から抜け出し、その、いわば防衛的な構造から解放されることによって、自分の生が他者の生と根元的にからまりあっているということを考えていく必要がある。(P. 28-29)


私が思うに、たとえどれほどアメリカ合衆国内に広くゆき渡らせるのがむずかしくても、いま必要なのはさまざまな解釈にオープンであることだ。それがどうして世界はこうなってしまったのかを私たちが知るための材料となるだろうし、私たちに異なる責任のありようを教えてくれるだろうから。自分たちについて一人称からだけでなく、言って見れば三人称の位置から語ること、あるいは二人称でなされる解釈を受け入れること、それが世界の権力のあり方についての私たちの理解を広げるのに大いに役立つはずだ。(P. 29)


ある視点を理解することに対する私たちの恐怖、それは自分がそれに飲み込まれてしまうのではないか、それに伝染して、敵と想定されている者の道徳的に危険な考え方に汚染されてしまうのではないかという、より深いところにある恐れのあらわれだ。でもそうしてそんな考えを持ってしまうのだろう? (P. 30)


たしかに左翼的分析のなかには、アメリカ合衆国は自分でまいた種を刈り取っているのだ、と単純に言い切るものがある。あるいは、アメリカはこの自体を自分から招いたのだと言うものもある。しかしこれらは、閉じられた解釈という点、言い方は違うがアメリカ合衆国の優越性と万能を主張する点では同じだ。これらも、ある単一の主体にこうした行動が起因していると想定する解釈である。(P. 31)


アメリカ合衆国でしばしば聞かれるのは、一因としてアメリカも罪に値し、かつ事実上これらの出来事を作り出した張本人はアメリカ合衆国であり、そしてアメリカだけがこうしたグローバルな結末の責任を負うべきだという意見である。こういった論理展開がマスコミや一般大衆に受け入れがたいのは、この場合、犠牲者を非難しているように見えるからだ。しかしそれだけがこうした見方を聞くやり方だろうか? そしてこうした言い方だけが、この見方を表明する仕方だろうか? (P. 32-33)


もし私たちが、現今の状況はどうして生みだされたのかを根元から考えることが暴力行為を犯した者の罪を許すことだと信じてしまうなら、私たちは疑わしい道徳観念によって自らの思考を凍りつかせることになろう。もしこうした仕方で私たちの思考が麻痺してしまうなら、私たちは違った仕方で道徳というものを裏切ってしまうことになる。つまりそれは、自分たちがどうしてこのような時点に立ちいたったか、という歴史にたいする理解を徹底するために連帯責任を果たすのを放棄してしまうことにほかならない。そうなれば私たちは、もうひとつ別の未来を想像し作り出すために必要な批評的・歴史的資源を自分自身から剥奪してしまうことになる。そして、いまの復讐の連鎖を超えて先に進むには、そのような想像と実践に頼るしか道はないのだ。(P. 33)


私たちの行いは自己から発するものではなく、状況に左右される。私たちは行動すると同時に、周りの影響によって行動させられる動物であり、私たちの「応答責任(リスポンシビリティ)」なるものも、そのふたつの結節点にこそ存在するのである。私を形作る状況に対して私は何ができるのか? そうした状況は私に何を強いるのか? それを変革するために私に何ができるか? (P. 42)


われわれは行動させられる、それも暴力的に。そしてそうしたとき、自分で自らの進む道を決める私たちの能力は徹底して弱められる。私たちがそのような暴力をこうむるとき、そこにいたってはじめてわれわれは、暴力的な傷にどう応答するかを倫理的に問うことを迫られるのである。暴力の歴史的連鎖のなかで、私たちにはどんな役割が与えられるのか、そのような応答をなすなかで私たちは何者となるのか、そして私たちは自らが行う応答の力によって、暴力を増幅させるのか、あるいは防ぐのか? 暴力に暴力を以て応じることは「正当化される」ように思えるかもしれないが、それは究極のところ応答責任を果たす行いなのだろうか? 同様に、道徳的な非難は即座に満足をもたらし、自分だけが正しいのだと他を非難することによって、そう述べる者はあらゆる罪から遠ざかり、一時的に自己浄化が可能になるという効果をもつ。しかしそれは応答責任と同じものだろうか? 応答責任とは私たちの世界の蓄積をもとに、社会変革に参画し、非暴力的で協同的で平等的な国際関係を理想として目指すことなのではなかろうか? 

私たちがこうした問いを立てるのは、暴力を起こした個人を免罪するためではなく、グローバルな正義の条件を求めて異なる種類の応答責任を担おうとするためである。(P. 42-43)


私たちの集団的応答責任は国家としてのそれだけでなく、平等と非暴力による協同をめざす国際的な共同体の一部としてのそれでもある。そうした責任は私たちに、どうしてこういう状況が生まれてきたのかを問うように求め、より耐久力のある立脚点から、社会的・政治的状況を再創造するような努力を要請する。これは言わば、私たちが聞くことのできること以上のものを聞くということだ。(P. 44)


歴史を顧みることではじめて私たちは、暴力の「根元」に到達できるのであり、暴力を拒絶するという名前のもとに暴力を永続化するような未来とは異なる未来像を描きはじめることができる。(P. 45)




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