2016年05月09日

ジュディス・バトラー「模倣とジェンダーへの抵抗」

ジュディス・バトラー(杉浦悦子訳)「模倣とジェンダーへの抵抗」

ゲイやレズビアンが自分たちの公の場面から消してしまおうとする暴力に脅かされているということは明白な事実だ。だがその暴力に対抗するという決定は、代わりにもう一つの暴力を持ち込んでしまわないよう、慎重でなくてはならない。レズビアンとゲイのどのヴァージョンを見えるようにしなくてはならないか。また、見えるようにすることによって、どの内的排除が設けられるのか。アイデンティティが見えるようになることは政治的戦略として十分でありうるのか。あるいはそれは政策 policy の変形をそれ自身の政策となり、さまざまな側面からその「治安を維持 police」するような人々をつれてくるとき、それは公的政治への絶望を表す記号ではないのか。(p. 122)


抑圧は表立った禁止という行為を通して作用するだけではないということをぜひとも認識しなくてはならない。抑圧は存続可能な主体を制定することによって、そして存続不可能な主体の領域を制定することによって、ひそかに作用することもできるのだ。そのような存続できない(非)主体 (un)subject を「のけ者 abject」とも呼べるかもしれない。彼らは法律の構造 economy の中では、名づけられることも禁止されることもない。このようにして、抑圧は考えることも名づけることもできない者の領域を作ることで、作用する。レズビアニズムは表立っては禁止されていない。それは、考えられるもの、創造できるもの、現実的で名付けうる者を統制するあの文化的理解の網目までまだ辿り着いていないからでもある。それでは、レズビアンが存在していない政治的文脈の中でレズビアンになるにはどうすればよいのか。その政治的文脈とは、言い換えれば一つにはレズビアンを言説そのものから排除することによってレズビアンに暴力を揮う政治的言説である。表立って禁止されれば、言説の場を占めることができるし、そこから逆言説とでも言うべきものを言葉にすることができる。ひそかに追放してしまわれると、禁止の対象としての資格さえもないということになる。(pp. 123-124)


 言説から消されるのと、存在する過ちとして言説の中に存在させられるのとは、大違いなのだ。だから、レズビアニズムが目に見えるものにすることが政治的急務である。だが、それが外側から、あるいは既存の統制的制度を通じて行われるのは、どんなものだろう。存在論そのものから除外されることは、抵抗の巻き返し点になりうるだろうか。(p. 124)


これが真実なら、ドラッグが真似るオリジナルなジェンダーとか原初のジェンダーというものはなくなり、ジェンダーとはオリジナルのない一種の模倣だということになる。事実、オリジナルとは模倣そのものの結果なのだという概念を産み出すのは、模倣にほかならない。言い換えれば、性別をはっきりさせられたジェンダーは、模倣的な戦略によって産み出されたのだ。それが模倣するのは異性愛というアイデンティティ、つまり、異性愛の「現実」は、オリジンでありすべての模倣の土台であると自称する模倣を通して、パフォーマティヴに構成されたのだ。言い換えれば、異性愛は常に幻影にすぎない自分自身の理想像を模倣し、それに近付こうとする過程にあり、しかも常にしくじっているのだ。それがしくじるように運命づけられているからこそ、それにもかかわらず成功をめざして努力するように運命づけられているからこそ、異性愛という課題は、自身の終わりなき反復に駆り立てられる。たしかに、自分をオリジナルとして市民権を得ようと努力する異性愛は、脅迫感にとらわれた強制的な反復として理解されなくてはならないし、そのような反復は自身のオリジナリティの外見しか産み出すことができない。つまり強制的な異性愛、言い換えれば存在論的に強化された「男」「女」という幻影は、基盤、オリジン、現実の規範的な尺度を気取る脚色と演出による外見にすぎない。(pp. 124-125)


異性愛が常に自分自身を精巧に仕上げるのに骨折っているということは、それが常に危険にさらされているという証拠、つまり、滅ぼされる可能性を「知っている」という証拠である。だからこそそれは絶え間なく繰り返さずにはいられないのだし、それは、その一貫性を脅かすものを締め出すためなのだ。(p. 126)


物真似の背後には、たとえばその日のジェンダーをどちらにするか決めたりできるような自由意志で動ける主体はない。それどころか、生きてゆける主体になる可能性を持つためには、一つのジェンダーの物真似がすでに進行中でなければならない。(P. 127)


事実、一貫性のあるジェンダーとは、はたからもわかるように同じことを反復することによって得られる。そしてそれは、その外見として、初めからある自由意志で動ける主体という幻想を産み出す。この意味でジェンダーとは、初めからある主体がみずから選んで行なう演技(パフォーマンス)ではない。むしろジェンダーとは、それが表現したがっていると思われる主体こそを一つの外見として構成するという意味で、パフォーマティヴである。異性愛の規範にそむいて行動すれば、まさしくその違反が産み出す快楽がもたらされることはもちろんのことだが、排斥、罰、暴力ももたらされる。この意味でジェンダーとは、強制的な行為でもある。(p. 127)


異性愛の位置付けが均一であるかのようなうわべを組み立てる例の身振りと行為の反復の合間に、噴出するのがこの余剰である。この余剰はまさに、その繰り返しを強制し、その絶え間ない失敗を保証している。その意味で、異性愛の関係構造 economy の中で暗にホモセクシュアリティをうちに含んでいるのが、この余剰なのだ。そして、ホモセクシュアリティとは、攪乱の脅威であり、その混乱はまったく同じことを強化して反復することによってなんとか鎮められる。だが権力が継ぎ目のない異性愛のアイデンティティという幻想を組み立てるのに用いる方法が、繰り返しであるなら、異性愛が自身の統一性とアイデンティティの幻想を確立するために自己を反復しなければならないとしたら、これはアイデンティティが恒常的に危機にさらされているということになる。なぜなら、もしそれが繰り返せなくなったらどうなるのか。あるいは、もしその反復という行為が、なにか別のパフォーマティヴな目的のために移転させられたら、どうなるのか。もし、繰り返したいという、いわば抑えがたい欲望が常にあるのなら、反復は決してアイデンティティを百パーセント完成させることはできない。そもそも反復の必要性があるということは、アイデンティティが自己同一性を持っていないということを意味している。それは制度化の合間ごとに非制度化される危険にさらされているということにほかならない。(p. 128)


異性愛は、性、ジェンダー、欲望の間に連続性があるかのような幻想を作り上げ、そうすることで市民権を手に入れている。(p. 130)


ジェンダーは身振り、動作、歩き方(ジェンダーの表象と解釈されている身体の演劇技法の配列)を通して、皮膚の表面に、深い内面性という幻想を演出する。(p. 131)


まず最初にジェンダーによって表現される性があり、次にセクシュアリティによって表現される性がある、強制的な異性愛はしばしばこのように思い込む。今、このような思考の作用を転倒させ追い出してしまわなくてはならない。(p. 132)



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2016年05月01日

栗田季佳『見えない偏見の科学』

見えない偏見の科学: 心に潜む障害者への偏見を可視化する (プリミエ・コレクション)




 より直接的で実践的な方法としては、Ehrke, Berthold, & Steffens (2014)の多様性トレーニングの研究がある。多様性トレーニングには、羊の描きあいをすると相手に合わせて似通った絵になることに気づかせたり、お互いの特徴を出し合って人の分け方の多次元性や集団の境界の曖昧さを議論したり、様々な人をいくつかの視点でまとめなおしてみたり、ロールプレイをしたりといったアクティビティが含まれる。このトレーニングを行った人たちは、上位集団(例:日本人)の多様性を認識し、下位集団(例:障害者)への態度が改善し、その効果が長期的に持続することが示された。(p. 144)


*Ehrke, F., Berthold, A., & Steffens, M.C. 2014, "How Diversity Training Can Change Attitudes: Increasing Perceived Complexity of Superordinate Groups to Improve Intergroup Relations," Journal of Experimental Social Psychology, 53: 193-206.



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栗田季佳『見えない偏見の科学』

見えない偏見の科学: 心に潜む障害者への偏見を可視化する (プリミエ・コレクション)




6-3 心の仕組みの副作用
6-3-1 「私」が好き


自尊心と表現される自己に対する肯定的な感情は、人生に対する満足感、幸福感などの心理的反応に加え、免疫などの身体的反応にも望ましい影響をもたらす。逆に、「自分はダメな奴だ」「私には価値がない」と自己を否定する状況が続くと、様々な精神的、身体的症状が生じる。不安や悲しみ、関心の喪失、集中力の低下、食欲低下や動悸や不眠などによって、生活がままならなくなる場合もある。(中略)
 そうならないために、人には、自己を肯定的で価値ある存在としてみなそうする心の働きがある。例えば、学生時代、試験前に「全然勉強してないよー。」という発言を耳にしたことがあるだろう(あるいは自分自身がそう発言したこともあるかもしれない。筆者もある。)これも、セルフ・ハンディキャッピングという自尊心を守るためのよく知られた現象である。事前にこのように宣言しておくことで、もし成績が良ければ「全然勉強していないのに、良い点数を取れた」ということで有能感を得ることができ、自分自身の評価が上がる。逆に、試験成績が悪かったとしても、「全然勉強していないのだから、仕方がない」「やればできた」と、自分の評価を下げずに言い訳ができる。(pp. 115-116)


 自尊心は人が主体的で安定した生き方をするために不可欠であり、自尊心を維持するための心の機能は対人関係にも現われ、偏見に結びつく。自己を肯定的に評価しようとする動機から、(中略)人は自分自身に似た者を好きになりやすく、自身と共通点をもった者を受け容れやすい傾向をもつ。Mahajan & Wynn (2012)は、生後まもない赤ちゃんでさえ、この傾向を示すことを明らかにした。彼女らの実験に参加した11ヶ月の赤ちゃんは、前に置かれた2種類の食べ物の内、どちらかを選んだ。その後、2匹のぬいぐるみが現れ、1匹は赤ちゃんが選んだ食べ物を好きだと表現し、もう1匹は赤ちゃんが選んだ食べ物を嫌いだと表現した。その後、赤ちゃんがどちらのぬいぐるみで遊ぼうとするかが観察された。すると、赤ちゃんは自分と好みが同じぬいぐるみ、すなわち自分と似ている方を選ぶ確率が高かった。おもしろいことに、この実験の手続きの順序を変えると異なる結果が得られた。実験では、まず2匹のぬいぐるみが食べ物を選び、次に赤ちゃんが食べ物を選び、最後に赤ちゃんがどちらのぬいぐるみで遊ぶかを選んだ。すると、赤ちゃんは必ずしも、自分と似たぬいぐるみを選ばなかった。つまり、自分と同じものが「偶然」好きである者よりも、自分が選んだ者を支持してくれているように見える者をより好む。このことは、自分に対して行為を示してくれる人、自尊心を高めてくれる人を求めていることを示している(ただし著者によれば、この傾向は大人になると消え、理由は何にせよ自分と似た人を好む傾向だけが残るそうだ)。(pp. 117-118)


 自分と類似する者を好む行為は、自分と異なる他者を排除し、拒否することへつながる。Hamlinら(2013)は、先述のMahajan & Wynn (2012)の知見を拡張するような実験を行った。この実験に参加した9ヶ月、14ヶ月の赤ちゃんも、Mahajan & Wynn (2012)と同じように、好きな食べ物を調べられ、自分と好きなものが同じあるいは違うウサギのぬいぐるみが出てくる劇を観察した。人業劇では、そのウサギと、別の2匹の犬のぬいぐるみを含めた2匹がボールで遊んでいた。劇の途中で何回かウサギがボールを落としてしまうシーンが出てくる。その際、1匹の犬は転がってきたボールをウサギに渡してあげ(親切犬)、もう1匹はボールをウサギに渡さずどこかへ持っていってしまった(いじわる犬)。劇の後、赤ちゃんは2匹の犬のどちらで遊ぼうとするかを選んだ。赤ちゃんがどちらの犬を選んだかは、赤ちゃんとウサギの類似度によって異なっていた。ウサギが自分の好みと同じ場合は親切犬を選んだが、ウサギが自分の好みと違う場合はいじわる犬を選んだ。この傾向は9ヶ月の赤ちゃんにも、14ヶ月の赤ちゃんにも見られたが、14ヶ月の赤ちゃんの方がより違いが如実となり、成長するにつれてより態度が明確になることが示された。
 これらの研究が示すように、自分と違った特徴をもつ者に対する厳しい態度は、発達のかなり初期の段階で生じている。自分自身が、そのように振舞うだけでなく(Mahajan & Wynn, 2012)、同様の行動を示す他者を支持し(Halmin et al. 2013)、仲間外れを集団レベルで強め、肯定的な自己意識を保持しようとする。
 自分との類似点の基準を集団にしても、同様のことが生じる。自分が所属する集団(内集団)の成員に対しては、ポジティブな評価を下し、利益をより配分するが、自分が所属しない集団(外集団)の成員にはネガティブな評価をし、利益を与えないという傾向がみられる(Tajifel & Turner, 1979)。古典的だか今なお影響力をもつシェリフのサマー・キャンプ実験では、キャンプに参加した少年を2グループに分けた。グループ単位で様々なゲームの対戦や炊事などの活動を行っていると、キャンプが進むにつれて、少年達は相手のグループと口論になったり、相手の集団を襲撃したりするようになる。内集団びいきは、ランダムによって設定された単純な集団(最小集団)でさえ生じる。(p. 118)


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