2016年02月19日

竹村和子「愛について」

愛について―アイデンティティと欲望の政治学





生殖メタファーの亡霊

自我は、リビドーの対象であったものを自我に近づけ、それを自我に合体させることによって、「憎しみ」ではなく「愛」を経験する。(pp.95-96)


エディプス・コンプレックスは(中略)それが去勢不安とペニス羨望を中心に語られるかぎり、発生論の体を成すこのファミリー・ロマンスも、結局は、男性的なリビドーを基盤とする生殖ドラマに収斂していく目的論でしかない。(中略)いわば最初にエディプス・コンプレックスがあるのではなく、最初に〈生殖イデオロギー〉が存在していたのである。(p.97)



欲望はつねに〈他者〉の欲望である



愛の経験



巧妙な言い忘れ

生殖は、あまたの性愛の行為の、あるいはそれを取り巻く種々の感情の偶発的な結果にすぎない−−テクノロジーの発達ののちは、稀にしか訪れない選択的な結果にすぎない。だがそれにもかかわらず、一種の前後転倒的な詭弁によって性愛と生殖が直結して解釈され、それを保障するために家族形態が正当化されていく。(pp.116-117)


思えば、生殖を含意する家庭内の性交を射程においた目的論で語られる愛の経験は、そもそも愛の経験を語っているものではない。(中略)いわばわたしたちは、「正しい」性対象を見つけて「正しい」愛の経験をもつことを期待されているにもかかわらず、「正しい」愛の経験の内実は言い忘れられ、その代わりに「道を外れた特異な(パーヴァース)」ケースだけが縷々、語られることになる。(pp.117-118)


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2016年02月15日

竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」(3)

愛について―アイデンティティと欲望の政治学





消費社会の勃興とレズビアンの性愛化

どのような行動(群)を「規範的な」性行為とするか、何をそのような性行為へとみちびく性欲望とするか、何をイメージして性的興奮を構築するかは、社会や文化によって決定されるのであって、文化や歴史や個人を横断する唯一、普遍的なエロスはありえない。(p.59)


レズビアニズムの文脈では、同性愛の性愛化はさらに重要な意味をもつ。近年のクィア理論を最初に提案したテレサ・デラウレティスは、男と人間の両方を意味するマン(男)という語の使用によって「女」が抹消されるように、男の同性愛をおもに意味する「ホモセクシュアル」の使用はレズビアンの抹消になると述べ、新しい用語クィアを提唱した。(p.62)


他方、女の同性愛の性愛化が、のちの女の同性愛文化に与えた否定的な側面は、その性愛至上主義である。1920年代になって、女がはじめて自分の性自認を実行することができた数少ない場所が、都市のサブカルチャーであり、そこでは消費社会の台頭期特有の性の自由が謳歌されていたことは、近代の性倫理を「性慾(セクシュアリティ)」を中心に理論化する精神分析の言説をあいまって、女同士の絆を定義するさいに性愛を特権化することになった。(中略)性愛を基準に同性愛を判断するこの定義は、こののちトラウマのように潜行し、50年代前後の大衆的なレズビアン・サブカルチャーの場面でも、70年代のレズビアン・フェミニズムの文脈でも、80年代後半の男役/女役の再考の機運のなかでも、否定あるいは肯定されながら、「本物の」レズビアンとは何かという議論を生むことになる。(中略)異性愛者の場合は、性愛の経験がなくても、異性愛かどうかは問題にならない。逆に言えば、異性愛者は「同性愛者ではない」ということによってしか定義できないカテゴリーであるために、「同性愛とは何か」−−とくに「本物のレズビアンとは何か」−−という定義によって、異性愛者のカテゴリーの外延が大きく変動する。(p.65-66)


資本主義社会において自律的な〈個〉であることは、公的場所で活動する個人(ジェンダー区分では男)を意味するので、女の欲望の獲得と固体化は、男化を含意するものである。(中略)男装のレズビアンは、服装コードや行動コードで規制されている男らしさ/女らしさのジェンダー配置を攪乱する存在であるがゆえに、〔ヘテロ〕セクシズムは、異性愛主義ではなく性差別の言語をつかって、女の同性愛を弾劾しようとしてきたのである。(p.70)


他方、女同士の性愛は、異性愛主義の言語によって否定・排除されるだけでなく、性差別の言語によって、色情的に、あるいは美学的に、搾取されもした。(中略)レズビアンの「エロティシズム」が、近代の抑圧的な性規範に対する風穴として、西洋=男中心の言説によって美学的に表象された。ボードレールの「呪われた女たち」、アングルの〈トルコ風呂〉、クールベの〈眠り〉などがそうである。(p.71)


19世紀末から20世紀初頭にかけてのセクソロジーの隆盛とともに、同性愛差別が大規模に開始されたと言われている。だが女の同性愛の場合は、異性愛主義によって一枚岩的に抑圧・禁止されたわけではない。異性愛主義と性差別という二つの言語をもつ〔ヘテロ〕セクシズムのイデオロギーは、数少ない自己表現の場(酒場であれ、上流階級のサークルであれ、文学表象であれ)を模索しはじめていたレズビアンの試みを巧みに取り込み、欲望と固体化、セクシュアリティ配置とジェンダー配置、レズビアン・エロスの禁止と搾取の両方を都合よく行き来しながら、女の同性愛の表出を二重、三重にも封じ込めていったのである。(p.72)


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竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」(2)

愛について―アイデンティティと欲望の政治学





性差別と女の友情

産業資本主義の勃興は、事務所や工場という公的な職場と、居住空間である私的な家庭の分離、および公的な職場で働く男と、家庭にいて男の世話をする女という中産市民階級のジェンダー区分をうみだすことになった(ドメスティック・イデオロギー)。男女の領域を分離し、各領域に別種の社会機能を振りわけることによって、その社会機能が要請する資質−−各領域が解剖学的な性によって分離されているために、性資質といわれるもの−−が作りあげられていった。そしてこの男女の領域の分離と、性資質の分離(男らしさ/女らしさの二分法)は、性欲望や性実践や性幻想における男女の区分をも捏造することになった。非対称的なジェンダー配置だけでなく、非対称的なセクシュアリティの配置が誕生したのである。(p.45)


むしろどのように強い絆であっても、女同士の関係には性的含意はなく、あくまで「ロマンティックな友情」であり、したがって当時すでに存在しつつあった異性愛制度を侵犯しないとみなされていたという、女同士の愛の不可視性と、それを成り立たせている女のセクシュアリティの無視の方を問題にすべきだろう。(中略)女同士の愛は結婚制度と抵触せず、むしろそれを補完する制度とみなされた。その理由は、女同士の愛も、結婚制度のなかの異性愛と同様に、女にとっては同じ位相で(性に受動的というファンタジーで)、「正しいセクシュアリティ」の規範に合致していたためである。(中略)女/男のセクシュアリティを非対称的に捉え、女を脱性化するセクシュアリティの配置が続くかぎり、つねに浮上してくるセクシュアリティおよび女の同性愛の無化と不可視性であり、現在でも依然としてそれは続いている。(p.48)


19世紀末になるにつれ、女同士の愛は病理化されていく。(中略)猛烈な勢いで社会を席巻する異性愛主義の言説は、「正しいセクシュアリティ」の理念の強化のために−−言葉をかえれば、男女のセクシュアリティを非対称的に固定する性差別的な性配置の虚構性を糊塗(こと)するために−−でっちあげられた、性対象の性別をめぐる階層秩序である。いわく、生殖を目的としない性行為や欲望は「倒錯」である。いわく、性欲望は男のものなので、性倒錯はソドミー(男性同性愛)である。いわく、欲望をもたない女はたとえ同性愛に耽っていても、いずれ「正しい男(ライトマン)」に出会うことで何の問題もなく「正常」へと「成長」する。したがって、いわく、女の同性愛は男の同性愛よりも無害である。(p.51)


「正しいセクシュアリティ」についてもう一つ強調しておかなければならないことは、これが社会でヘゲモニーを得ている/得ようとしている階級の次代再生産を目的とするイデオロギーであることだ。(中略)自由競争の資本主義社会のなかで、中産階級はおのれの階級倫理を形成し、また常時、それを再生産していかねばならず、それに最も寄与したのが性倫理であり、それを具象化したのが中産階級の女のセクシュアリティであったと言える。まさにこの文脈で、白人中産階級の女同士の愛は容認されたのみならず、(消極的にではあるが)推奨もされた。(p.51)


下層階級の女一般に女同士の性愛の慣習があったかどうかは問題ではなく、「正しいセクシュアリティ」の拘束の外にいる者が有する蓋然性としての女の欲望の可能性に、中産階級は敏感に反応したと言える。それは人種においても同様だった。黒人女は生得的に「淫ら」とされ、女同士の性愛の危険性があるとみなされた。(p.55)


女のセクシュアリティは、女のジェンダー役割と無縁に形成されるものではなく、また女同士の愛は異性愛/同性愛の二項対立でのみ説明されるべきものではない。産業資本主義の勃興期のアメリカ合衆国では、女同士の愛は異性愛主義によってではなく、白人中産階級の性倫理を構成している性差別と階級差別と人種差別の言語でくっきりと分節化されていたと言えるだろう。(p.56)


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