2015年12月30日

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)




表現の自由こそ、知識人が死守すべき砦


 妥協なき言論と表現の自由こそ、世俗に生きる知識人が死守すべき砦である。この砦を放棄すること、あるいはこの砦の基礎をゆるがすような干渉を許すことは、知識人の使命に対する裏切りとなる(pp. 144-145)。


 表現の自由が、ある地域ではうらやむべきことに完全に保証されているのに、べつの地域では完全に無視されているというようなことは現実にはありえない。というのも、神意をまもるという世俗の権利を主張する権威者が存在する地域では、どのようなところでも表現の自由など存在すべくもないからである。いっぽう知識人にとって、頑強に反駁することこそ、その活動の核であり、論争こそ、啓示に頼らぬ知識人の現実の活動の舞台となり拠点となる(p. 145)。


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エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)




知識人はアマチュアの姿勢に徹すること


 知識人が相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、なにより有効である。しかし、いましばらく現実的になって、わたし個人のことを語るのを許していただきたい。

第一点。アマチュアの姿勢をつらぬくとは、自分の講演や本や記事が広範囲の不特定多数の受容者にゆきわたるため、受容者からの反応が予測できないという、公的な領域でのリスクなり不確実性を自分から背負いこむことを意味する。このリスクなり不確実性は、エキスパートやプロだけからなる内輪のインサイダー領域におけるそれとはくらべものにならない。過去二年間に数回ほど、わたしはマスコミから専属のコンサルタントにならないかという誘いをうけた。それをすべてお断りしたが、専属のコンサルタントになってしまうと、特定のひとつのテレビ局や特定の新聞・雑誌に拘束されるだけでなく、その発言も、現在支配的な政治言語や概念の枠組みにあわせねばならなくなるからだ。同じような理由から、政府のためのコンサルタントとか政府専属のコンサルタントになることについても、わたしはまったく関心がない。なにしろ、この場合、政府によって、自分のアイディアがどう利用されるかわかったものではない。

第二点。謝礼をもらって知識を切り売りするとき、大学が講演を依頼してくる場合と、ごく少数の閉じられた官僚グループをまえにしてしゃべるよう依頼される場合とでは、事情がずいぶん異なること。このちがいは、わたしには歴然としている。そこで大学の講演はかならずひきうけるようにして、その他の依頼は断っている。

第三点。もっと政治的な場合、たとえばパレスチナ人グループから支援の講演を依頼されるとか、南アフリカの大学から招待されて反アパルトヘイトと大学の自由について講演を依頼されるようなときは、かならずひきうけるようにしている。

つまり、わたしが自分で支援するのを選択した政治的目的なり観念にしたがって行動しているのは、ひとえに、それらが自分の信ずる価値なり原則と合致しているからである。したがってわたしが受けてきた文学の研究者になるための訓練に、わたし自身が拘束されるとは思っていないし、近代のヨーロッパ文学とアメリカ文学を教える資格を得ているからといって、政府の政策について口をつぐんでいようとも思っていない。わたしは、自分の専門よりも広い領域の問題についてしゃべったり書いたりしているが、それはわたしが、自分の狭い専門領域のなかではなしえない社会参加を、純然たるアマチュアの立場でおこなおうとしているからである。わたしの主張は、教室ではしゃべる機会のない種類の主張であって、それに賛同してくれるような新たな、また広範囲におよぶ受容者を開拓しようと、わたしは意識してつとめていることはいうまでもない(pp. 141-143)。



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2015年12月19日

エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

★高校生のうちに読んでおきたい本


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)





支配的な規範を論駁することが、現代の知識人のほんとうの役割

知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代表=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。(中略)国民言語は、ご自由にお使いくださいといわんばかりに、ただそこにころがっているのではない。それを使用するには、それをわがものとして領有(アプロプリエイト)せねばならないのだ。」(p.68)


知識人は、現在支配的な規範に対抗するか、さもなくば支配的な規範に協調するかたちで、「公的生活に秩序と継続性」をあたえるのである。わたしの意見をいわせてもらえば、このふたつの可能性のうち、最初の可能性(つまり支配的な規範を論駁すること)だけが、現代の知識人のほんとうの役割であると思う。なぜなら今日、支配的な規範というのは国家をぬきにしては考えられないし(国家によって規範が上から押しつけられるためであるが)、国家とは、つねに勝利者の側につき、つねに権威ある位置にあり、つねに忠誠と従属を要求するものであって、(中略)知的探求や知的検証を押しつぶしにかかるからである。(pp.73-74)

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