2015年10月21日

市野川容孝「介助するとはどういうことか−−脱・家族化と有償化の中で」

・ほとんど忘れられているけれども、かつて「社会化」という言葉は、社会主義の陣営で、例えば「生産手段の社会化(=国有化)」という形で用いられた。つまり、サービスを含めたもろもろの財を、私的にではなく、公的に管理することが「社会化」だったのであり、それは、純粋な市場原理の限界や弊害を批判的に見すえることでもあったのである。

 ところが、日本の介護保険における「社会化」では、介護事業への株式会社や営利企業の参入が容認、いや積極的に鼓舞され、市場原理も、どちらかと言えば肯定的に言及されることが多かった。そういう動向が良いか悪いかはまた別問題だが、少なくともそれを「社会化」と表現するのは、言葉の使い方が少し間違っていると私は思う。介護事業を手がける株式会社や営利企業が、利潤追求を第一として、介護労働者を低賃金等の劣等な就労条件に追い込み、その結果として利用者にもきちんとしたサービスを提供しなくなるというような、現にありうる事態がもたらされるなら、それはもはや「社会化」とは言えないだろう。

 (中略)

 介護の地域格差を明らかにした『介護保険−−地域格差を考える』(岩波新書、2003)の中で、著者の中井清美さんは、そうした地域格差を半ば所与としながら、私たちは「どこに住み、その市町村で介護サービスを受けるのか」を選択すべき時代にさしかかっていると言い、「深刻な地域格差が存在するからこそ、利用者も賢い選択を求められるのである」と結んでいるけれども(同書、186頁)、人びとに「賢い選択」を強いるような地域格差を、そのまま放置するようなことが、介護の社会化だとは私は思わない。「社会化」という言葉で目指されるべきことは、格差の中での「賢い選択」ではなく、何よりも格差そのものの是正だと私は思う。
 (← たとえば、「医療の社会化」で目指されたのは、所得の高低にかかわらず、またどの地域に住んでいようと、誰でも必要なときには、必要な医療が平等に受けられるようにすることだったはず。)

 事ほど左様に、介護保険をめぐって「社会化」という言葉は、誤用、乱用されてきた−−そうでないと言うなら、この言葉がこの半世紀で、原形をとどめないほどに大きく変わってしまったということぐらいは自覚してほしい−−と私は思うのだが、しかし、その一つの意味として、ケアの脱−家族化(あるいは脱−私事化)があることには深く同意する。

 家族による介護が、いまだに一つの常識として残っているとしても、他方で、介護保険を契機にケアの社会化(脱−家族化)も進んでいる。(pp. 138-139)

・家族介護と並んで、ケアが、たとえどんなに大変なものであっても、さほど奇妙にも特殊にも思われないもう一つのケースとは、それを人が仕事として有償でおこなっている場合である。

 (中略)

 「有償化」と「賃労働化」という言葉を、ここでは少し区別して用いよう。有償化とは、ある活動に対価として貨幣が支払われること一般であるのに対して、賃労働化とは、初期のK・マルクスに部分的に依拠して言えば、その有償化された活動が、生きるための手段へと転化することである。有償化された活動でも、それが当人にとって生きる糧としての重みをもつに至っていないなら、まだ賃労働ではない。

 (中略)

 なぜ、介助の有償化が求められたのか。いくつか理由はあるが、まず第一に、マンパワーの確保と拡大がある。お金がもらえるということになれば、無償のボランティアだけが頼みの綱である場合よりも、一層、多くの人を介助に呼び込むことができ、その分、自立生活もより安定度を増す。

 しかし、それ以上に重要なのは、第二に、介助を受ける側のエンパワーメントである。介助が無償のボランティアであるとき、介助をする側は、それをしてあげているという態度に出がちであり、他方、介助を受ける側は、それをしてもらっていると受けとめがちである。「あげる」「もらう」という言葉で表現される以上、その関係は決して対等なものではない。介助をする側が優位に立ち、受ける側は劣位に置かれる。しかし、介助が有償化されるなら、介助を受ける側も相手にお金をあげるのであり、それをする側もお金をもらう立場になる。有償化は、こういう逆向きの「あげる」「もらう」を組み込むがゆえに、関係をより対称的で対等なものに近づけることができる。少なくともそう考えられた。(中略)だけれども、そこに他者の手段化が潜んでいることも否めないと思う。(pp. 140-142)

タグ:ケア
posted by R_Partner at 14:52| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする