2015年09月07日

岡野八代『フェミニズムの政治学』第2部第3章第2節

フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ




・ヤングによれば、ホームにおける人びとの交流は、単なるコミュニケーションの道具としてのことばだけでなく、家に存在するさまざまなモノを介して行われている。それは異なる時の隔たりをこえた、記憶の保持 preserving と想起 remembrance と語り直し retell であり、個々の歴史を語り継ごうとするこうした営みは支配的な歴史と抑圧的な政治に対抗しうるのである。

 家のような場所((ホームプレイス))で得られるケアの与え合いと、その意味深い個別性は、支配的で、搾取をよしとし、商業的で、官僚的な社会構造から一部ではあれ自由であるので、価値ある自己と人間性という感覚を発達させるのである[Young 1997: 159]


 多くのフェミニストたちが批判してきたように、家((ホーム))において「女性たちは、仕え、慈しみ、養うことで、男性と子どもたちの身体と魂に自信を与え、世界の中に自分の刻印を残すための拡張的な主体性をも与えた」[ibid.: 134]。他方で、女性たちは、家庭内で課せられてきた女性役割のために、自身のアイデンティティを獲得し、自らを世界へと投企していく力を長いあいだ奪われてきた。さらには、そのような「ホーム」はしばしば、全一的で安定したアイデンティティと全能性を確認するために、男性たちが回帰する場として描かれてきた[cf. Honig 1994]。したがって、男性を主人とする家庭においては、市村が指摘するように、ことばを介した対話は必要とされない、と考えられてしまう。わたしたちは、すでに前章で、他者への依存を否認することで確立される主体内部での愛の物語が、じつは支配=従属関係であることを確認した。市村が批判的に指摘する「言葉を必要としない」家族においてもまた、男性にとって妻は、別個のアイデンティティをもった〈あなた〉ではない。妻は〈わたし〉と同じように自らを〈わたし〉と名乗りうる存在ではなく、夫である〈わたし〉の欲望・欲求を適えてくれる〈わたし〉の一部にすぎないと捉えられているのだ。

 「家」という理念が歴史的に抱えてきた抑圧や特権性に対するフェミニストたちの批判はたしかに正しい。男性を主人とした「家」の理想化にわたしたちは、批判的な目を向けることを止めてはならない。しかしヤングはなお、女性たちが「家」において主に担ってきた営みを注視することによって、「ホームという理念はまた、批判的で解放的な可能性 critical liberating potentialを備えている」ことを明らかにしようとする[ibid.: 134]。ヤングは、ハイデガーを参照しながら、とりわけ「女性たちが伝統的に担ってきた家を維持する仕事 household workの、創造的で人間的な creatively human側面」に着目する。ここにおいて、ヤングもやはり、「守ること preserving」をめぐる人間の活動がもっている可能性に焦点を当てる[Young 1997: 135]。

 では、ヤングのいう「批判的で解放的な可能性」とは家のどのような側面に存在しているのだろうか。

 ボーヴォワールやアーレントといった女性思想家たちは、家を維持する仕事は「ルーティンワーク」であるとして、そこに人間的な価値を認めてこなかった。より正確にいうならば、奴隷的な労働と捉えていた。しかしながら、ヤングは、むしろそこに、支配=従属関係といった人間関係や、建設=破壊といった人間活動とは異なる、多様な者たちの間で育まれる生の意味と、個々人の尊厳を守るための人間活動を見いだすのである。

 第一に、〈家にあるさまざまモノ〉に取り囲まれ、それを〈わたしのもの〉と受け取ることで、ひとは自分自身の人生の文字通り物質的な重みを感じる。そして、つねに同じモノに触れることで、変化を遂げる自身がそれでも一貫した何ものかであることを学ぶ。その学びのプロセスは、守られ、危害を与えられないという、家が醸し出す安心感によって維持されなければならない。身体の統合性や一体感を、あたかも自らの身体の延長であるような家に住まうことで感じ、個人として、外界・他者から守られてしかるべき、彼女そのものに固有の価値=尊厳を身につける。

 さらに、〈わたしのもの〉として家に保存されるモノが、彼女・かれの人生の価値やそこでの出来事を思い出させてくれる。ヤングはそれを、「アイデンティティの物質化のプロセス」と呼び、家においてそうしたプロセスを幾度もひとは経験していると論じる[ibid.: 150-151]。家を維持する仕事を通じて、モノを同じ状態で保存することは、一方で変わらないモノを介して、他方で、そのモノを多様に受け取る一人ひとりにとって異なる人生の意味や価値を家に住む者たちに与え、アイデンティティ形成のプロセスを用意するといった、「創造的で人間的な」活動なのである。

 第二に、家の中で保存されるモノは、世代をまたぎ、時間を超えて残る remain。家に住んでいるひとは過ぎ去っていくが、モノはひとの後にも残る remain。家族の一員は、もうそこにいない、過去のひととなっている場合もある。その彼女は、〈わたし〉の見ず知らずのひとである場合もある。しかし、家にあるモノに、生き生きとした意味を与える行為、つまり家事((ハウスキーピング))によって、そのモノは、わたしの知らない彼女・かれとともにある人生をわたしに与えてくれる。ここでは、ヤングは自身の経験から次のように論じている。

 それは、わたしが生まれる前に亡くなった、わたしの祖母の写真である。それは、わたしが成長するあいだ、わたしたちが住んでいた、どのアパートでも家でも、ピアノの上に飾られていた。わたしの母が亡くなったとき、わたしが家にもってきた最初のモノが、その写真である。家にある、思い出深いモノが体現している歴史は、しばしば世代をまたぐのだ。[ibid.: 151]


 したがって、第三に、家を保持する活動力(=家事)は、モノを介して、見ず知らずの他者の記憶でさえ、引き継ぎ、記憶にとどめ commemoration、幾度も物語られる retellことによって、わたしたちに、そうした記憶を想起する re-memberことを促すのである。それは、幾度も繰り返される、同じような物語りではあるものの、どのような調で奏でられるかは、繰り返されるたびに異なるような、物語りである。しかも、この場合の物語りは、すでに存在していない者についての物語りであっても、共に暮らす者と交わされる物語りであっても、互いにじつは通じあっているかどうか不確かなものである。というのも、たとえ共に暮らしている者たちであっても、彼女たち・かれらは、異なる時間を生きているからである。たとえば、自分自身の幼児期を思い出すとき、そこにいたはずの親が抱く我が子の思い出とは、まったく異なるものである。

 最後に、モノによって想起が促されるということは、「自分たちの生、あるいは、モノが想起させる先祖の生における、過去の一時いっときが現前したままにある」ということを意味する。モノを介した想起は、過ぎ去った生の意味を現前させる。「想起は、わたしたちをここにもたらしてくれたものを、肯定することである」[ibid.: 154]。すなわち、自らの支配やコントロールを超えたところにある過去の出来事や、自らをここにもたらしてくれたひとがかつて存在したことを、あるがままに受け入れようとすることなのである。

 だが、想起された過去は物語れることによってのみ守られるのだから、その物語りは一回限りのものでも、固定したものでもない。ここにこそ、「守ろうとする営み」の創造力と道徳的な価値が賭けられている。たとえば、家の外で新たな出来事や政治的な見解に出会うたび、わたしたちはその営みを通じて、自分自身と他者を含んだ過去と現在のつながりを再構築することを迫られるのである[ibid.]。(pp. 233-237)


Young, Iris. 1997. Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy (Princeton: Princeton University Press).





使い終わった予備校のテキストが高く売れるらしい!?




デキるヒトの高価買取 バリューブックス

posted by R_Partner at 17:32| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

C・C・スピヴァク『スピヴァク、日本で語る』

スピヴァク、日本で語る




「最後にロケヤ・サクハワト・ホサインの言葉を引いて終わりたいと思います。彼女はベンガル生まれのフェミニストで1929年に『Abarodhbashini』という本を書きました。英訳が『排除された者たち』("The Secluded Ones")というタイトルでフェミニスト・プレスから出ています。正確な翻訳は「女性の囚人」という意味です。次のように彼女は本の冒頭に記します。「私たちはあまりにも長く幽閉されてきたのでそれにまったく慣れてしまった。だから私たちは−−とくに私自身、囚えられることには何の反発も感じない。女の漁師に「くさった魚の臭いはいい臭い、わるい臭い?」と聞いたら、彼女はどう答えるだろうか?」

 ロケヤ・サクハワト・ホサインは前世紀のもっとも偉大なフェミニストのひとりとして、女性が家庭に閉じこめられることの弊害をだれよりもよく理解していました。彼女は「とりわけ幽閉がなぜ悪いのかを感じることさえ私はできなくなっている」と言っています。彼女はここで真実を語っていません。そして女漁師ならばだれでもくさった魚はわかるものです。では、ホサインは何をしているのか? なぜ彼女はこんなことを言っているのでしょうか?

 私の考えでは、この賢い女性が行っているのは有用な区別を設けること、すなわち私たちの運動が(私が言っているのは学問的なフェミニストの運動のことです)30年か40年前に問題とせざるを得なかった区別をつけることです。彼女がつけようとしているのは体験的判断と理論的判断との区別であり、それこそまさに沖縄の阿波根昌鴻が65歳で東京の中央労働学院に通って理論を学ぶことで自らの理想主義を編みなおした営みにつながるものでしょう。こうしたフェミニズムの運動が学問としてアメリカ合衆国の大学に根付いたころ、理論的判断とは金持ちで異性愛者の白人男性のものだったので、女たちの話は理論化のための題材として片付けられてしまい、そのような事情があったからこそ、私たちは理論的判断を非フェミニスト的だとして糾弾したのです。いっぽう伝統主義者は、そうした理論に関心にもっている私たちは反人道主義的で、日常的な意味で「非道徳的」だと考えていました。その時から今までに多くが変わりました。フェミニスト理論はいまや研究と教育の大事な一部分で、口承による歴史研究((オーラル・ヒストリー))も大学のなかで盛んです。しかしかつて論議の背景にあった一般的想定のほうもまだ力を失っていません。今こそロケヤ・サクハワト・ホサインと阿波根昌鴻に耳を傾けるべきではないでしょうか。

 幽閉から抜け出す機会を与えてほしい、そう彼女たちは言うのです、(幽閉というアイデンティティ・ポリティクスを称賛するだけではなくて)囚われているとはどういうことなのかについて自分の見解を持ちたいから、と。想像力のなかでは彼女たちはなるほどすでにそのことを果たしています。にもかかわらず彼女たちが慣れっこになっていた幽閉がいったいどんなものだったかを知れば、閉じこめられていなかった者たちが衝撃を受けるかもしれないことを彼女たちは知っています。彼女たちの声は理論を動かす行為媒体((エージェンシー))になりたいという訴えであると同時に、体験だけにもとづく判断は自己免疫的になってしまう、想像力が作り出すことのできる抗体にたいして内部から免疫を作ってしまう危険をはらむという自覚でもあるのです。

 私たちが今グローバルに展開する巧妙な資本主義の内部から他の人びとを助けたいと思うのなら、彼女たちの洗練が私たちには必要です。かりに私たちが資本主義の利潤極大化哲学に対する強硬な批判者であったとしても、資本主義の内側から働きかける以上、私たちの体験にもとづく判断だけでは資本主義の道徳的な自己免疫性と同じことになってしまう危険があることを、ホサインがはるか昔にしたように、理解する必要があるのです。私は多くの国際的なフェミニストたちの運動に関わっていますが、この問題はリンゴに隠れた悪魔、堕落をもたらす問題なのです。便利な変革などけっして長続きしません。自分の寛容さに気分が良くなり、成功が簡単に確かめられる基準で測られたとしても、結局なんの意味もありません。言いかえれば、グローバリゼーションに対して疑わしきは罰せずという甘い姿勢でのぼむことはもうやめにすべきなのです。もし人文学が提供する訓練が十分に強靭なら、資本主義的グローバリゼーションの約束がいかに偽りだらけで、それは社会主義的グローバリゼーションの約束が不可能なのが自明であることと同じということを私たちは理解するはずです。国家の編成が変わったからといって、再配分の本能は自動的に生起しない。再配分の本能も国家の編成も、いずれも不可能性に関係し、また性的差異の倫理にも関係していますが、その関係の仕方は異なるのです。(pp. 24-27)





使い終わった予備校のテキストが高く売れるらしい!?




デキるヒトの高価買取 バリューブックス

posted by R_Partner at 10:17| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ノーマ・フィールド『へんな子じゃないもん』

src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/118NQT8TQXL._SS120_.jpg" />

へんな子じゃないもん




 ときどき、病院のベッドにいる祖母のことを考えていると、わたしたちのあいだの心遣いと愛情の交換がなんと不均衡だったかと、胸つぶれる思いがする。彼女が心遣いし、わたしは受け取るばかりだった。するとわたしの両腕にのこる彼女のからだの重みの記憶が、慰めとして、それ以上のものとして、やってくる。あの記憶は、彼女がけっして言葉にしなかったものすべての重みを受けとめている。わたしの腕は、いまのところ、彼女のからだに蓄えられた歴史の記憶を抱えているのだ。

 母への葉書に宛名を書くたびに−−彼女は「高齢者」の称号を冠せられる身分になじもうとしはじめているところだ−−名まえの感じを書くことに手応えのあるよろこびを感じる。ひとりの人間が生きている、いまのところは−−その名に答えてわたしのメッセージを受け取る人が。(pp. 247-248)





使い終わった予備校のテキストが高く売れるらしい!?




デキるヒトの高価買取 バリューブックス

タグ:ケア
posted by R_Partner at 09:44| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする