2015年08月31日

岡野八代『フェミニズムの政治学』第3章第2節「家族のことば」

フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ




・家族は「言葉を拒むもの」では、決してない。むしろ、わたしたちの経験を超えた、時に言葉じたいを超えるような、多様な他者との語り合いを可能にする場である。そのことを確かめるために、家族の物語りをもっともよく示すものとして、ノーマ・フィールドの祖母への語りと、落合恵子の母への語りを見てみたい。なぜならば、二人の語りは、ヤングが幾度も注意を喚起するように、一つの家族の物語りは、一つの声で同じ事柄が語られた結果ではないこと、そして、他者との対応のあり方を特徴的に物語っているからである。彼女たちの間で交わされることばや物語りは、互恵性や平等、対等性や反転可能性 reversibility といった形式的な対話の条件の存在しないコミュニケーションである。そこにわたしたちは、同等者であることを前提としない、他者性に開かれた物語り、他者の存在をそのままに肯定しようとするコミュニケーションの在り方をみるだろう。

 フィールドは、「対話」と題した節において、つぎのようなエピソードを綴る。

 おばあちゃまは煩わされたくないのよ、と母は愛情をこめて言う。狸さんですか、とヘルパーさんは祖母に声をかける。[...]
 ときに、祖母のベッドからゆらめく音符のような声ならぬ声があがると、母はとんでいって、だいじょうぶ? なにかご用? と訊ねる。しかし最近では、ベッドに駆けつけるかわりに、とくに夜中には、応える声をそっと送り返すことがある。その音は、「はい」か「おばあちゃま」という語を芯にしているのだが、しだいに言葉の輪郭を失って、ますますメロディと化してゆく。
 母は秋の兆しをいつも胸騒ぎとともにながめてきた。いま目に浮かんでくるのは、ふたりの老いた女が枕をならべて横になり、長い夜に言葉なき言葉をたがいに送りあっている図だ。[フィールド 2006: 169]


 フィールドの祖母は、ほとんど寝たきりの状態ですでに言葉を介したコミュニケーションが取れない。フィールドの年老いた母が、主に祖母の世話をし続ける。そして、フィールドと母の間には、世話を必要としている祖母への異なる思いが横たわっている。

 フィールドは、祖母への思いが強いためについつい自分の「論理」で彼女を見てしまう自分を、幾度も戒める。「おばあちゃま」を介して、母と向き合うフィールドは、祖母に対して献身的に世話をする母に対する自分の思い込みをも、反省していく。母が何の苦もなく祖母の世話をしているものと思い込むことは、フィールド自身が自分を守るためだったのだ、と。ただ、母の苦悩は、言葉で伝えられるようなものではなく、もっと漠然とした不安であり、その不安をフィールドも共有することで、フィールドと母は祖母への想いをようやく共有するのである。

 論理的にことばをやり取りする相互関係を期待しないフィールドの母は、祖母の息遣いに耳を傾け「なにかご用?」とたずねる−−しかし、返答はない−−ことで、「深い関心をもって」祖母の欲求の「あて先」として立っているのである。したがって、フィールドは、「なぜおばあちゃまは返事をしないのかしら」と母に尋ねる叔母に我慢がならない[フィールド 2006: 171-172]。フィールドにとって、祖母に向けられる「ことば」は、ただそこに在る祖母に向けられたフィールド自身の想いであり、言葉を失いかけた祖母をじっと見つめ、耳を傾けるしかない、一方的なものなのだ。

 にもかかわらず、フィールドは、祖母からなにかを受け取っている。1950年代の東京で、茶色い巻き毛をしたフィールドを、母に代わって外出に連れ出してくれた祖母を、これまで思いもしなかった形で想い出し、祖母の気持ちに初めて気づかされるからだ。

 −−おばあちゃま、へんな子をお医者さんのところに連れていくのは、いやじゃなかった?
 しばらくのあいだ彼女はなにも言わず、聞こえなかったのかな、とわたしは思った。長い沈黙のあと、彼女は目をこちらに向けず、開けもせずに、こう言った。
 へんな子じゃないもん、自慢の子だもん。
 [...]
 こんな答えは期待していなかった。なにも期待していたわけではない。[...]
 それは、甘美このうえない別れの言葉となっただろう。
 しかしわたしがどんなに身勝手な空想をふくらませようと、祖母は私のために生きてきたのでも死んでいくのでもない。[ibid.: 183]


 期待していなかった、自分自身に対する祖母の深い想いの表明。それは、まさに「甘美な」愛情を喚起させるが、むしろフィールドはその祖母の言葉に、「わたしのため」ではない、祖母自身の強い意志をみてとっている。それは、どれほど自分を愛してくれていようと、フィールドには領有することのできない、祖母の尊厳、ただ祖母だけに属する生と死の価値を、おそらくフィールドは受けとめるのである。ここで注意したいのは、祖母の尊厳は、フィールドに対する祖母の想いに思わず触れてしまったことを契機に、長い時間を経てようやくフィールドに届いたことである。(pp. 237-240)





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2015年08月14日

ハイデガーにおける「ホーム」(岡野八代『フェミニズムの政治学』)

フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ




 では、ホームにおいてわたしたちは、どのようにして濃密な時間を他者と共に生きているのだろうか。以下でマルティン・ハイデガーの議論(中略)を通じて論じていきたい。

 1951年の講演「建てる・住む・思考する」("Bauen, Wohnen, Denken")のなかで、ハイデガーはつぎのような言葉を残している。

ことばがいったい何をわたしたちに語りかけているのかについて、再度耳を傾けてみよう。古いサクソン語の wuon、ゴート語の wunian は、古語の bauen と同様、留まること、滞在することを意味しています。しかし、ゴート語の wunian は、この留まるということがどのような経験なのかを、もっとはっきりと伝えています。Wunian は、以下のことを意味しています。つまり、平和であること、平和へともたらす、平和の中に留まることなのです。平和という言葉 Friede は、自由 das Frye であること、安らかに自足していることを示しています。また、自由はつぎのことを意味しています。危害や危険から守られている、何ものかから守られている、保護されているということ。自由にすることとは、本来、大事にすること/いたわる/危害から守ること/助けることを意味しています。大切にすることとは、たんにわたしたちが助けようとするひとに危害を与えない、ということだけを意味しているのではありません。真の意味で、保護することとは、積極的なことであり、予めそのもの自体の本性に委ねるとき、それをとりわけ、その本性にさかのぼって救済するとき/その本性に送り返すとき、それを、まさに言葉の真の意味において、平和が保たれていることへと/保たれている囲いの中へと「解き放す」ときに出来します。住まうこと、平和な状態を享受していることとは、親しいひとに囲まれて、つまり、自由な身となって、すべてがその本性のままに保護されていることを意味している。住まうことの根本的な性質とは、このいたわること、保護することなのです。[Heidegger 1954: 149/ 13-14.]


 ハイデガーはこの講演で、建物と住むこととの関係を語源に遡って再考し、家といえば建物であると短絡されることによって忘却されてしまう住むことの意味を思考しようとしている。

 ベンジャミンやノディングスらの関心にひきつけながらハイデガーの言葉に耳を傾けるならば、わたしたちは、「ホーム」について次のように考えることができよう。第一に、ホームに住まう・暮らすことは、「平和のままであること」である。しかし、「ままである」ことは消極的に放置された状態ではなく、積極的に何ものからか守られてあることである。ハイデガーは本講演において、他者とのケアよりむしろ、ひとがモノに寄せるケア Sorge と、存在を顕わにするテクネーに議論を集中させているが、ノディングスらによれば、個人が「ままである」ことは、つねに、積極的に他者から関心が注がれ、愛されてあることを意味している。

 第二に、他者の関心の下にあるひとは、まさに「自由」であること。ここでの自由とは、危害からの自由という消極的な意味にいっけんみえるが、ハイデガー的な関心からいえば、そのものの「本性」が現れ出てくる、という積極的な意味が込められている。しかも、先述したように、人がその本性を現すためには、つねに他者、それも「親しいひと」のケアが介在している。したがって、わたしたちは、自由とはつねに他者との交流の中で出来することに気づかされるのである。「本性」が開示される状態、すなわち自由な状態にあること、それは、「平和が保たれていることへと「解き放」」たれた−−受身であることは、注目に値する−−状態であり、ルディクとベンジャミンの言葉を援用するならば、そうした状態を保とうとすることこそが「慈しみ」だといえる。

 第三に、先述したように、異なる進み方・ありようをしている濃密な時間が交差する場、だからこそ、「わたしは、あなたが存在してほしい」と願う、他者を愛する場であるホームに住むことは、「保護すること(bewahren)」として定義される。ここで、ハイデガーがホームの本質を表す鍵概念としての「保護すること」騎意味をわたしたちは注意して理解しなければならない。ハイデガーが伝えようとしているのは、つぎのことである。すなわち、守る、保護するといった、日本語ではいっけんすると消極的な現状維持を含意してしまう言葉が伝えている実践が意味するのは、ケアされるひと−−この場合の多くは子ども−−の「本性」など、ケアする者を含め誰にも前もって分からないにもかかわらず、あたかもそこに現前するかのように、その本性が開示されるよう配慮しながら前もって、安全を確保する、あるいは、「その本性にさかのぼって救済する」ことなのだ。つまり、ケアするひととケアされるひとのこの時間性のズレこそが、ケアされるひとのニーズに応答しながらも、自分の支配下に置かない、彼女・かれがその「ままに」あることを願う、愛を喚起する。(中略)

 ハイデガーの短い「家」への洞察は、つぎのことを伝えている点で重要である。まず、否応なく時間の中に投げ出されたわたしたちの「本性」は、他者が〈わたし〉の時間を先取りし、成長を促すことによって、ようやく開示される。家の中で暮らすわたしたちは、このような人間存在の根本的な在りように応対する実践を、つねにすでに試みている。この成長を望むこと、それは、ケアする者たちが、自分とは異なる時を刻むことになる子の「本性」を受け取り、その「存在が現れる」ことを待ち、その存在が「開かれる unfold」のを助けることである。

 さらにハイデガーの考察は、「ホームにいること」だけでなく、各個人が「ホームをもつこと」がいかに重要なのかにも気づかせてくれる。なぜなら、積極的な関心によって維持される平和な状態の中で自由なままであることは、他者が介在する限り、当然に生まれ来る全てのひとに保障されているわけではないからだ。まず、ホームを持っていること。そしてそのホームに住みながら、多様な他者が集い、そこにある種の「共同性」が現れてくる。傷つけるものから守られ・守り合う、傷ついたときには癒やしあうこと、傷つきやすい((ヴァルネラブル))人間にとっての根源的な営みについて、ハイデガーの議論は、わたしたちの思考を促してくれる。(pp. 226-230)






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2015年08月10日

ジェンダー秩序

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 ジェンダー秩序とは、社会のなかで諸個人が行うイデオロギー的・物質的な実践のパターン化された体系のことである。この秩序を通して男女の権力関係は繰り返し再編され、意味を付与される。男性性と女性性の形態や約束事((コード))が繰り返し創出されるのも、双方の関係が組織化されるのも、社会におけるジェンダー秩序を通してである。

 ジェンダー秩序という概念を最初に発展させたのは、女性性の歴史的構築を研究したジル・マシューズ(Matthews 1984)である。マシューズによると、ジェンダー秩序という考え方は、あらゆる既知の社会に男女の区別はあるものの、その内容は多様であるという事実認識を踏まえている。「ジェンダー秩序とは、社会的な男女を創出し、男女関係に秩序とパターンを与えるための体系的方法であるが、ヒエラルキー、不公平、抑圧をともなう論理的必然性は有していない」(Matthews 1984: 13)。マシューズはジェンダー秩序を、経済秩序または経済様式という概念と比較する。経済秩序や経済様式は生産手段や消費主義かもしれないし、封建制または共産主義かもしれない。

 同じように、ジェンダー秩序は家父長制ではなく、平等主義や母権制の形態さえとるかもしれない。マシューズによると、ジェンダー秩序という概念は家父長制概念とは異なり、ジェンダー関係の一般的な形態とその具体的内容の区別を可能にしてくれる。このアプローチを用いることによって、普遍主義の傾向に歯止めをかけることができる。家父長制を所与とすることはできず、それぞれの個別社会においてその存在を実証しなければならないからである(Matthews 1984: 14)。またこのアプローチは、男女を家父長制下の操り人形のように描写するのではなく、ジェンダー関係が繰り返し創出されるなかで諸個人として能動的な役割を果たしていると認識することによって、社会変革の可能性を拓くことができる。マシューズは次のように書いている。

 「いかなるジェンダー秩序であっても、その具体的な性質ないし内容はつねに生成と変化の不断のプロセスのなかにある。それは各人のさまざまな行動によって生成され、各人もまたその相互作用から生成される。それは無数の社会集団と個人と利害関係による、闘争と駆け引きと矛盾と予断せざる結果から創造される。…(中略)…これらの対抗しあう諸力から創り上げられる女性性と男性性は、不安定でつねに変化している。それぞれの内容も矛盾とまではいかなくとも、一貫性を欠くことが多い」(Matthews 1984: 14-5)。

 コンネル(Connell 1987=1993, 1995)は、ジェンダー秩序の概念をジェンダーの社会理論のなかに統合した。そのため、この概念はマシューズよりもコンネルと密接に結びつけられて語られることが多い。コンネルにとって、ジェンダー理論の中心課題は身体とジェンダーの関係である。ジェンダーとは、人間の身体に備わっている生殖能力と性的能力を繰り返し解釈して定義づけた、その結果であるとコンネルは論じる。各種の女性性と男性性とは、この更新されつつある解釈と定義づけによって生まれるさまざまな効果であって、身体にインパクトを加え、性格に影響を与え、文化や制度を形づくる。コンネルは、ジェンダーとは人間の行為能力((エージェンシー))を繰り返し創造していく一方で、制度と構造のレベルにおいて各人の行為能力を制限する方向にも作用すると分析する。

 (中略)

 マシューズ(Matthews 1984)と同様、コンネルもジェンダー関係は進行中の過程であると見ている。ジェンダー関係とは、人間の実践ないし行為の産物であって、順応も抵抗も、受容も反発もある。つまりジェンダー関係は、断絶と変化に開かれている。(中略)

 マーシャル(Marshall 1994)は、ジェンダー秩序という概念はジェンダーの分析、とりわけ各人の有するジェンダー化された主体性と、社会構造としてのジェンダー関係を理解するのに有益であると考えている。マーシャルにとって、ジェンダー秩序は「解釈様式((モード))」を提供してくれる。各人は、主観的かつ社会的で、身体化されたアイデンティティを構築するのにこの方式を用いる。しかしながらマーシャルは、ジェンダー化された主体性が権力関係の配置のもとでどのように形成されていくのか、とりわけ理解力も行動力も備わっている主体が、なぜその地位を再生産する諸条件の正当化にすすんで参加する傾向があるのか、もっと十分な説明が必要であるという(Marshall 1994: 117)。

 ジェンダー秩序という概念を評価する際に、論者たちはそれが家父長制概念を上回る利点をもっていると指摘する。たとえばポラート(Pollert 1996)は、コンネルのジェンダー秩序の理論は家父長制よりも多様性に向かって開かれており、ジェンダーを進行中の過程であると強調することで、人間の行為能力を的確に捉えていると評価している。同様にマーシャルも、このアプローチによれば、ある社会を家父長的であると記述しても「超歴史的で、行為者不在の〈家父長制〉概念に滑り落ちることは避けられる」と述べている(Marshall 1994: 116)。(pp. 75-78)

 




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