2015年06月29日

岡野八代『フェミニズムの政治学−−ケアの倫理をグローバル社会へ』第2章第3節

フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ




第2章 自由論と忘却の政治
 第3節 フェミニズムによる自由論批判

・「本節では、テイラーが批判するように「堅い意志」を持っていることを要請し、能動的に自らの感情や葛藤を忘れることができる主体となること、すなわち、主体の内部にまで厳格な公私の二元論−−選択は〈わたし〉のものであるべきであり、実際にもそうである−−を貫くことでようやく享受されるような自由概念が、現実の社会の中でどのように作用し、どのような効果を人々にもたらしているのかを批判的に検討する。つまり、本来は他者からの干渉を受けずに、「自分が独立した人格」であり、「自分のしたいことをし、自分のありたいものであること」を許される領域を見いだそうとする消極的な自由概念が、その効果として、いかに個人を主体化し、現実の社会構造にその主体を従属させ、しかも自己責任の呪縛の中で、他者との応答関係から織りなされる社会から主体を隔絶してしまうかを考えてみたい。」(pp. 72-73)

・「ハーシュマンは、バーリンにしたがって、選択が自由を理解するさいの鍵概念であることは認めており、また他者からの介入から自由であること、といった消極的自由概念の意義は見失ってはならないという。しかし、女性たちが迫られる困難な選択を具体的に考えれば、バーリンのように選択能力のなかに自由意志を見いだし、そこに「自己目的としての価値が与え」られると考えることはできない。むしろ、ここの選択がなされる社会的文脈−−とくに、家父長的な社会制度や価値観−−と、他者や外界との相互行為の中で培われる諸個人の内面にこそ、目を向けなければならない。(...)「選択する主体の社会的構築」こそが、フェミニストにとっての自由をめぐる問題なのである。」(p. 75)

・「しかし、果たしてメグは自由なのであろうか。メグが陥っている困難とは、不自由であることではなく、あたかも、社会的に開かれている選択肢の中から一つを選び、それをじっさいに行使しうる自由が彼女に備わっており、だからこそ彼女の意志で中絶しないという選択を為した、とみなされてしまうことから生じているのではないか。換言すれば、ある選択を為した、という事実もって、それ以前のメグが置かれた状況や彼女自身の葛藤がすっかり忘れ去られ、事後的に、堅い意志をもってその他の情念や自らに影響を与えている経済状況を克服するような自由な主体だったはずだと社会的に構築されてしまうことが、選択後に彼女が直面したであろう苦境を惹起しているのだ。」(p. 76)

・「なぜ自由であるためには、〈わたし〉は社会状況や自らの葛藤から目を逸らし、能動的に忘却しなければならないのだろうか、と。」(p. 77)

・「消極的な自由が空虚なのは(...)おそらくは、〈わたし〉を構成しているはずのさまざまな社会関係や、そうした関係性から生じてくる多様な生の構想を、いったんは忘れて自らに命令を下すことで、そうした諸々の事象から自らに巻き起こる葛藤を忘れなければならないことから生じる、〈わたし〉の中の空虚さではないか。」(pp. 77-78)

・「消極的自由論は、バーリンが高く評価するように、諸個人間で異なる多元的な善を許容するような社会、権力によって善が画一化されることのないような社会を構想するために不可欠なものとされた。しかし逆に、そのような社会で生きる一個人は、主体として、統一された善を、しかも、たった一つの善を構想する者とみなされてしまうのである。空虚な自由と社会の多元性のために、外界と交流し、さまざまな思いに駆られる豊かな存在であるはずの〈わたし〉の内の多様性や変容が犠牲にされてしまうのだ。」(p. 78)





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岡野八代『フェミニズムの政治学−−ケアの倫理をグローバル社会へ』目次

フェミニズムの政治学―― ケアの倫理をグローバル社会へ




はじめに pp. 1-8

第1部 リベラリズムと依存の抑圧
 序論 フェミニズム理論と政治思想 pp. 11-

 第1章 包摂と排除の論理 pp. 17-
  シティズンシップ論からの出発 pp. 17-
  第1節 暴力による包摂 pp. 19-
  第2節 現代シティズンシップ論における新たな包摂 pp. 27-
  第3節 市民の責任論がもつ包摂性 pp. 30-
  第4節 リベラルな責任論の応答不可能性 pp. 33-
  第5節 依存を排除する包摂の原理 pp. 40-

 第2章 自由論と忘却の政治 pp. 47-
  私的領域における自由と公的領域における責任 pp. 47-
  第1節 自由への問い pp. 51-
  第2節 自由意志と忘却の作用−−バーリン、テイラー、フラスマン pp. 56-
  第3節 フェミニズムによる自由論批判 pp. 72-79 (→読書メモ
  第4節 自由意志と主権国家の結託 pp. 79-

 第3節 リベラリズムとフェミニズム pp. 91-
  リベラル・フェミニズムは存在するのか? pp. 91-
  第1節 公私二元論と忘却の政治−−ペイトマンとブラウン pp. 93-
  第2節 リベラリズムとフェミニズム pp. 104-
  第3節 リベラリズムの「批判力」 pp. 107-
  第4節 リベラルな自己と社会の構想 pp. 111-
  第5節 反転するリベラリズム pp. 116-
  第6節 主体への異議申し立て pp. 122-
 小括 忘却された主体の系譜 pp. 131-


第2部 ケアの倫理の社会的可能性

 序論 なぜ、家族なのか pp. 137-

 第1章 ケアの倫理からの出発 pp. 143-
  家族の両義性 pp. 143-
  第1節 相互依存と家族 pp. 145-
  第2節 ケアの端緒としての他者の存在 pp. 148-
  第3節 ケアという実践 pp. 152-
  第4節 ケアの倫理への異論 pp. 161-
  第5節 公私二元論批判による反論 pp. 167-
  第6節 ケアの倫理から社会的責任論へ pp. 176-

 第2章 私的領域の主権化/母の自然化 pp. 185-
  ケアの倫理の私化 pp. 185-
  第1部 愛と正義からなる世界 pp. 189-
  第2節 「母」と「自然」の置換 pp. 191-
  第3節 転倒した愛の物語 pp. 198-
  第4節 母性愛から母的な思考へ pp. 210-

 第3章 ケア・家族の脱私化と社会的可能性 pp. 219-
  愛の実践から社会の構想へ pp. 219-
  第1節 愛の場としてのホーム pp. 221-
  第2節 家族のことば pp. 231- (→読書メモ)(→読書メモ
  第3節 家族からの出発 pp. 242-
 小括 家族の脱私化から脱国家化へ pp. 247-

第3部 フェミニズムと脱主権国家論
 序論 主権国家・近代的主体・近代家族制度の三位一体をほどく pp. 253-
 
 第1章 フェミニズムが構想する平和 pp. 257-
  政治思想と暴力性の消去 pp. 257-
  第1節 女性と平和 pp. 259-
  第2節 反・本質主義的なケア論へ pp. 264-
  第3節 近代的主権国家の誕生と近代的主体の誕生 pp. 269-
  第4節 母的思考から平和の構想へ pp. 274-

 第2章 安全保障体制を越えて pp. 283-
  人間の安全保障? pp. 283-
  第1節 エコノミーの暴力 pp. 287-
  第2節 暴力のエコノミー pp. 289-
  第3節 安全保障からケアへ pp. 291-
  第4節 遅れる正義/修復的正義 pp. 305-

 第3章 ケアから人権へ pp. 315-
  ケアは国境を越える pp. 315-
  第1節 人権をめぐる三つのアポリア pp. 319-
  第2節 ポジティヴな人権論としての承認の政治 pp. 331- (→読書メモ
  第3節 ケアの倫理から証言の政治へ pp. 337-

 終章 新しい共同体に向けて pp. 349-
  荒野のなかのフェミニズム pp. 349-
  反暴力で闘う pp. 354-

註 pp. 359-
書誌 pp. 421-
あとがき pp. 423-





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2015年06月22日

チャールズ・テイラー『近代 想像された社会の系譜』(書評)

近代 想像された社会の系譜




中島隆博「チャールズ・テイラー『近代 想像された社会の系譜』−−近代的であること、宗教的であること−−ロバート・N・ベラー追悼」

1 ロバート・N・ベラーの魂とともにあった午後
(略)

2 近代的であること、宗教的であること
(略)

3 大いなる脱埋め込み化−−経済、公共圏、人民主権
 (前略)『近代 想像された社会の系譜』を取り上げて考えてみよう。この本は原題が Modern Social Imaginaries であることからわかるように、「近代の社会的想像」の特徴が何であるのかを彫琢すると同時に、その特徴が英国、フランス、米国において、複数の異なる仕方で展開されてきたことを論じたものである。さらに、この複数性は西洋の外にも及び、さらに別の仕方で「複数の近代」が可能であることが指摘されている。

 さて、テイラーが考える「近代の社会的想像」の特徴は何か。それは、人間がそれまで埋め込まれていた領域から解放され、個人として自立するとともに、新たな社会的紐帯を作り上げるという点にある。具体的に言えば、前近代にあった人間の埋め込みの状態、すなわち、ヒエラルキー的な社会秩序、秩序ある宇宙や存在の大いなる連鎖、繁栄(富裕・健康・長寿・出産)という人間的な善に埋め込まれていた状態(78〜82)から離脱し、人間が新たな仕方で社会的に結びつく三つの領域が出現したというのである。この三つの領域は、出現した順に、経済、公共圏、そして主権を有した人民である。

 まず、経済とは何か。

ここでいう経済とは、生産・交換・消費が連動しつつ、固有の法則と力動をそなえた体系として機能する、一連の活動のことを指す。つまり経済とはなんに、世帯や国家のなかで集団して必要になる資源を権力者が管理運営する、ということではない。ある種のしかたでわれわれが互いに結びついている状態、騒乱や紛争で脅かされないかぎり原則として持続可能であるような共存の圏域、いまやこれが経済的なものの定義となる。[...]これ以降、組織的に編成された社会はもはや政体((ポリティ))の同義語ではなくなり、これ以外の社会のありようにもそれぞれ固有の形式とまとまりがあると理解されるようになる。市民社会((シヴィル・ソサエティ))という言葉の意味がこの時期に転換したということ自体、まさにこのことを反映している。(107〜108)


つまり、人々が各自の利益を追求しても、いや追求するからこそ、おのずと「見えざる手」によって相互に結びつくという、「共存の圏域」こそが経済である。これは政体から自立した、新たな人間の連帯のあり方であって「市民社会」を支えていくものとなる。

 それに続いて登場したのが、メディアを通じて構成される公共圏である。人々は「自発結社」をつくることで、互いの意見を交換し「世論」として共有する。

[18世紀の]公共圏の内部では社会の成員は寄り集まって共通の目的を追求する。つまり彼らは自発結社をつくりあげ、しかもそのことを自覚しているわけである。にもかかわらず、この自発結社はその社会の政治構造によって構成されているわけではない。[...]このように政治の外部に存在するという点こそ、公共圏のもつ新しさの一面にほかならない。(132〜133)


重要なことは、公共圏の新しさが、政治の外にあることで、権力について討議することを可能にしたということである。それは経済と同様に、政体の外で自立する人々の社会的紐帯であるとともに、いったんそれが成立するや、政体がそれを無視しては立ちゆかなくなるという意味で、政体の可能性の条件ともなる。ここから民主主義にはもう一歩であるが、そのためには、第三の脱埋め込み化としての人民主権が必要であった。

 人民に主権があるという考えは、18世紀末のアメリカ革命、フランス革命において、異なる仕方で表象されるようになったとされる。アメリカ革命の当初、人民に主権があるとは考えられておらず、英国人の「古来の国制」に基づいて植民地の独立が主張されていたが、後に憲法の起草に当たって、それが新たに解釈し直され、「われわれ人民」が権力の正統性の基礎を提供することになった。

 ここで引き合いに出されているのは、〈人民((ピープル))、あるいは当時の別の呼び方でいえば「国民((ネーション))」は、その人民の政治体制よりも前に、かつその政治体制に依存することなく存在しうる〉という観念である。人民とはこうした存在であるからこそ、世俗的な時間のなかの自分自身の自由な行為によって、自分自身の体制をみずからに与えることができる、というわけである。(224〜225)


アメリカ革命において、政体はここでその基礎を人民の主権に置くようになった。他方、フランス革命においても、「王の秩序」を回復するという「旧式の民衆暴動」であったバスティーユ襲撃が、新たに解釈し直され、「みずからを守ろうとする人民の主権の表現とみなされるようになる」(184〜185)ことによって、人民主権という新たな社会的想像が登場したのである。

4 神は個人的・社会的アイデンティティのなかに現前する
 以上が、テイラーの語る「近代の社会的想像」を構成する三領域であるが、より重要なことは、テイラーが近代的であることに宗教的であることを重ね合わせている点である。これら三領域は近代の世俗化とも言い換えうるものだが、テイラーは世俗化を、「たんに「宗教と結びついていない」という意味で用いていない」(142)。それどころか、世俗化には宗教が深く関与していると言うのである。

宗教的な次元を排除することはじつのところ、私のいう「世俗」概念にとって十分条件でないのはもちろん、必要条件ですらない。なるほど、世俗的な自発結社((アソシエーション))とは共同の行為に純粋にもとづくものであり、この自発結社を神が基礎づけることはいっさい排除されている。しかしこのように自発的に結社をつくる人々が、宗教的な生活形態を続けられなくなるわけではない。それどころか、たとえば政治的な自発結社は純粋に世俗的であらねばならないという要求が、この宗教的な生活形態のほうから出される場合すらありえよう。たとえば、まさに宗教的な動機から教会と国家の分離が擁護される、というような場合も実際にある。(301)


(中略)

要するに、テイラーが見ようとしているのは、神の現前の仕方が前近代と近代において変化したのであって、決して近代は神を退けたのではないという事態である。

(中略)

5 複数の近代と神
 だが、こうした近代と宗教に対するテイラーの見方は、実はそれほど目新しいものではない。なぜなら、東アジアが西洋近代に直面した時に、まっさきに、そして絶えず問い続けたのは、前近代の「宗教」に代えて、いかにして近代的な宗教を構築し、それによって近代の世俗化を遂行し、ひいては上述の三つの領域を独立して維持するかであったからだ。その際、「土着」の「宗教」である神道や仏教そして儒教が、一方でその前近代性を徹底して批判されながら、他方で近代の宗教として再整備されていったことは、東アジアにおいてはよく知られていることである。ところが、そうした試みは往々にして、ナショナリズムという、歴史や文化あるいは民族を動員した、国家に結びつけられた社会的紐帯に還元されていった。

 テイラーそしてベラーにとって問題なのは、そうしたナショナリズムから「倫理的な近代」を救い出すことである。それは、ヨーロッパ型の近代を脱構築し、「複数の近代」に開いていくこと、すなわち、「近代とはヨーロッパを範型とする単一の過程であるという見かたを、われわれ自身がついに乗り越えること」(285)が不可欠である。
 
(『UP』No. 492, 2013, pp. 58-63より抜粋)






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タグ:政治哲学
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