2015年05月27日

異性愛主義

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・「異性愛主義((ヘテロセクシズム))の語源は、1960年代後半のフェミニストたちの造語である「性差別((セクシズム))である。The Oxford English Dictionary『オックスフォード英語辞典』によると「異性愛主義」の最初の用例は1979年であり、「異性愛者が同性愛者に向ける偏見や敵意、同性愛者に対する差別」(OED online)という定義が与えられている。フェミニズムの内部ではしだいに、社会のなかでジェンダー化された不平等は、人種差別((レイシズム))や同性愛嫌悪((ホモフォビア))などの抑圧構造からも同じように強化されていると考えられるようになり、そのためにフェミニストたちは、「性差別((セクシズム))」の前に「異性愛((ヘテロ))」をつける必要があると考えた。」(『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』p. 83)

・「ダイアン・リチャードソンは次のように述べている。「異性愛は社会的領域に行きわたっている。社会性という概念と、社会的領域に参加するための社会化の過程の核心には、正常なふるまいについての観念があるが、この観念を代表しているのが異性愛である」(Richardson ed. 1996: 13)。リチャードソンは、異性愛はジェンダー化されており、おもに女性を社会化して一夫一婦制の核家族生活を受け容れさせるよう作用していると述べる。換言すれば、結婚や家族などの異性愛を支える社会制度によって、異性愛は定義される。(中略)ここから明らかに、異性愛はある特定の集団による一連の性の実践または性的指向とみなされるよりも、ただ「正常」かどうかに関係しているだけである。他方、同性愛は逸脱という言葉によって、あたかも各人の生がセクシュアリティによって定義づけられるかのように表現されている。これは異性愛と同性愛という対が、まったく異なるやり方で知覚されることを示している。一方のセクシュアリティは副次的で、全体像の一部にすぎないのに、他方のセクシュアリティはすべてを決定し、ゲイとレズビアンについての否定的な言説を形成するのである。」(『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』p. 83-84)

・「リッチの議論の核心には、異性愛とレズビアニズムは同程度に手に取りやすい「選択」ではないこと、異性愛はみずからの正常さを信じて疑わないことを証明したいという意図がある。各人は「カミングアウト」して同性愛を主張しない限り異性愛者と見なされる例をあげて、異性愛が性の選択または実践というより、1つの制度として作用していることを、リッチは明らかにする。とくに女性たちに向けて、異性愛が家父長制の権力装置であり、おそらくまだ分析されていないやり方で女性の人生を方向づけ、異性愛が女性の人生にとってもっとも望ましいだけでなく、回避できない人生行路のように思わせるとリッチは主張する。
 こうした主張のもとで、リッチが含意しているのは次のようなことだ。一方では、身体的暴力、たとえばレイプ、虐待、女性器切除など、現在および過去に継続してきた実践がある。他方では、自己意識の形成と統御にかかわる実践、たとえば、文学、芸術、映画における恋愛物語のはてしない描写がある。この両者は相俟って、一方は懲罰の脅迫として、他方は幸福の約束として、異性愛制度を強化している。リッチによると、男性の性衝動のよくある記述、すなわちきわめて強烈で、一度引き金が引かれたら充足するまで止められないという記述もまた、女たちに対して、男女の性的アイデンティティは異なるために、自分たちは男たちよりも自制心をもたねばならないと考えるよう仕向けている。リッチにとって「異性愛を1つの制度として吟味しないことは、資本主義という経済体制や人種差別というカースト制度が、肉体的暴力や虚偽意識などの多種多様な強制力によって維持されていることを認めずにいるのと等しい」(Rich 1986[1980]:51=1986:86)。
 リッチは、強制的異性愛はフェミニストの研究にもはびこっており、強制的異性愛をもっと強力な批判的検証にかけなければ、フェミニズムの言説はとうてい異性愛主義から脱出できないだろうと述べるが、これは重要な示唆である。」(『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』p. 84-85)

・「異性愛主義と闘うとは、異性愛が覇権((ヘゲモニー))を握っている事実をただ認めるだけでなく、異性愛とフェミニズムのあいだに存在しうる緊張関係をごまかさないことでもある。ファスは言う。「異性愛が〈強制的=強迫的 compulsory〉な地位を達成するためには、その実践が内的必然性のもとにおかれているように見えねばならない。異性愛をアイデンティティとともに制度として、実践とともにシステムとして成立させている言語と法は、防衛と保護のための言語と法なのである」(Fuss ed. 1991: 2)。ファスが暗示するように、同性愛はつねに異性愛の外部であり周縁に位置づけられるが、そうでありながら異性愛を定義づけ存立させるのに欠かせないのである。」(『キーコンセプト ジェンダー・スタディーズ』p. 86)


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・「異性愛主義(heterosexism)が最初に用いられたのは、75年のアメリカ精神医学会における研究発表の際であるとされる。その用法は、異性愛者による同性愛者への偏見・反感・差別を意味するものであった。社会学者のジョセフ・ナイセンは、レイシズムが人種的偏見だけでなく、人種に基づく差別を是認する社会制度によって機能する権力作用も含めて定義されていることを踏まえ、異性愛主義を異性愛者の反同性愛の偏見に限定するのでなく、社会における偏見の制度化の側面も含めるべきであると主張した。社会学者のバリー・アダムも、ホモフォビアが心理学的・イデオロギー的側面から接近する傾向を強く持っていたのに対し、異性愛主義はその側面に加え制度・構造・物質化の側面を包含する社会学的視点を有すると主張している。以上から、異性愛主義には異性愛を「自然」な性のあり方とし規範化するイデオロギー作用を暴くとともに、それに基づくシステムを問題化する視点が打ち出されているといえる。」(風間孝・竹村和子編『“ポスト”フェミニズム』p. 196)




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2015年05月21日

山根純佳「被災者とは誰か」

山根純佳「被災者とは誰か」(『UP』No. 485,2013年3月号)

 被災者とは誰か? 3・11以後の原発事故による放射能汚染は、その空間的広がり、時間的長さから、この問いをとりわけわかりづらい問題にしている。すでに可視化されている問題だけでも、コミュニティと生活基盤の崩壊、先行きの見えない避難生活、被爆のリスクをめぐる分断と対立など、自然科学の問題では扱いきれない、社会的な問題が広がっている。こうした問題を明らかにすべく、各地で社会学者が被災地や避難先での人びとの経験に耳を傾け、記録を積み重ねている。

 この被災の研究においては、社会学は単に社会を記述し分析する経験科学にとどまることはできないと思われる。今現在、苦しみ、困惑し、助けを必要としている人びとがどのように扱われるべきかという価値判断へのコミットと、それを改善するための政策提言を伴わざるをえないからだ。その意味で、被災をめぐる社会学研究は、経験科学、規範科学、設計科学の三要素を含む、きわめて公共社会学的な企てといえる。

 ではこの公共社会学としての被災研究は、具体的に何をどのように解明するべきなのだろうか。この問題について、私が取り組んできた山形における自主避難者の事例から考えてみたい。山形県は全国でもっとも多くの避難者がいる県で、現在も一万人以上が避難生活をつづけている。その七割が避難区域外の福島市や郡山市から避難してきている自主避難者である。彼/女らは、被爆の不安のない安全な子育ての基盤を求めて避難してきたと同時に、住み慣れたコミュニティから切り離され、不安を抱えて生活している。なかでも夫を福島に残し母親と子どもだけで避難している母子避難者は、避難先でのケアサービスの利用も制度的に難しく、孤立や子育ての負担などの困難を抱えている。その他にも避難生活の経済的負担、先行きの見えなさ、避難元のコミュニティとの関係などさまざまな生活のストレスと放射能を「天秤にかける」状況がつづいており、避難生活の不安・負担の大きさから三年間の借り上げ住宅の期限を待たずに福島に戻っていく家族もいる。言うまでもなく、放射線被爆への不安やそこから逃れるための避難生活の困難は、原発事故がなかったならば経験しなかったものであり、自主避難者は、「被災者」として適切な支援を受けることを求めている。2012年6月には議員立法で自主避難者をも含めた避難の権利や被爆しない権利の保障をうたった「原発事故子ども・被災者支援法」が成立したが、現段階では理念法にとどまっており、具体的な支援策にはつながっていない。自主避難者への支援の実現のためには、自主避難者も支援を受けるべき被災者であるとの社会的合意を早急に達成していく必要がある。この問題における社会学の課題とは、人びとの経験や個々人がおかれている状況の記述をとおして、なぜ彼/女らが被災者であるのか、それはどのような被災であるのかについて「社会学的説明」を与えていくことにあろう。以下では、さしあたって、自主避難者を正当な「被災者」として位置づけることに懐疑的な見方に対する批判的応答という形で、いくつかの「説明」のあり方を考えてみたい。

 まず、津波被害や原発周辺の避難区域によって故郷を奪われた人たちが、第一義的に被災者であり、家がなくなったわけでも故郷を奪われたわけでもない自主避難者は被災者とはいえない、という見解がある。これは指定区域外の避難者を「自主的」な避難にとどめている政府の方針をそのままなぞった見方といえる。この見解に対しては、子どもの低線量被爆のリスクや将来的な被害を根拠にした自然科学にもとづく反論と、人びととの主観的不安とそれを規定している社会構造を根拠にした社会学的な反論がありうる。前者は医学や原子力工学者の専門家によって「科学」の言説においておこなわれているが、社会学が取り組むべきは、後者の議論、すなわち人びとが抱いている不安の質や、その不安が社会構造によってもたらされた合理的なものであることを、記述し、説明することであろう。

 人びとが現実を意味づけたり解釈したりする際に依拠する言説状況(社会構造といってもよい)から考えてみよう。非常にわかりやすい問題として、年間積算被爆量を1ミリシーベルトとする「法」(文部科学省告示第94号)に対し、事故後それを優に超える20ミリシーベルトにおいて生活してよいとした、安全をめぐる「二重基準」の言説がある。政府は、年間積算被爆量20ミリシーベルトを基準に原発周辺の地域に避難を要請したのに対し、それ以下とされた地域では避難の必要性は認めず、そこでの学校生活の再開を容認した。この「違法」なものを「合法」とする二重基準によって、避難区域外の中通りの人びとは、事後的に大文字の「被災者」から排除されたといえる。1ミリシーベルトで危険だと言われていたものが、なぜ20ミリシーベルトなのか、20ミリは危険で15ミリはシーベルトは安全なのか。「科学」の専門家の説明を待たずとも、こうした線引きに市民が疑問と安全性への不安を抱くことは当然である。さらにこの政府の方針をめぐって、100ミリシーベルト以下は安全だとする専門家の言説、20ミリシーベルト基準を批判する専門家の言説、まったく異なる説明がメディアやインターネットをとおして人びとに受容された。避難者の多くは、インターネットを通して被爆のリスクに関する情報を収集し、「何が正しいかわからない」不安のなかで避難を決断している。また、県が公表するモニタリングポストの値と、自分たちで測定した近所の放射線の値がかけはなれているなど、「国・行政の言説に対する不信」も避難を選択する理由となっている。

(…)

 こうした安全とリスクをめぐる混乱と避難をめぐる対立は、原発事故によって必然的にもたらされた避けられない問題だったのだろうか。そうではないだろう。法定の年間一ミリシーベルト被爆基準にもとづいて、自主選択を認める緩やかな避難区域を設定したり、子どもたちの疎開、学校での保養がおこなわれていれば、こうした不信や不安は軽減できたかもしれない。

 その意味で「不信・不安」と「分断」は、(原発事故が第一の人災とすれば)第二の人災といえる。言説と人びとの意識の関係を分析する社会学の研究手法は、この人災のメカニズムの解明に重要な役割を果たすと考えられる。

 もうひとつ、自主避難者を被災者とみなすことへの懐疑的な見方として、避難者は福島から避難したことでより困難を経験しているのではないか、といった議論もある。この見方によれば、避難の継続に支援するよりも、避難元への帰還を進めるべき、ということになる。たとえば、放射線医学の専門家である中川恵一は、チェルノブイリにおける避難をめぐって「精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限といった事故に伴う副次的な影響のほうが、放射線被爆よりはるかに大きな損害をもたらした」とするロシア政府の報告書を引用し、「避難によって放射線被爆は減ったとしても、避難そのものが寿命を短縮させる」として「放射線被爆を避ける代償」を強調している。確かに、筆者がおこなった福島在住の親と山形への避難者を対象とした調査でも、精神的不調、身体的不調ともに、避難者のほうが高いという結果が出ている。実際に、避難生活の大変さから福島に帰還していく人もおり、避難生活がストレスをもたらすものであることは確かである。しかし、だから福島にいるよりも避難するリスクのほうが高い、避難は有害だ、という論理は成り立つだろうか。

 この避難有害論にもいくつかの反論がありうる。ひとつに、そもそも低線量被爆のリスクが明らかにされていない、その点で、在留と避難のリスクは、比較不可能であるという自然科学にもとづく批判がある。第二に、適切な支援を受けられない「自主避難者」にとどめていることが、自主避難者のストレスを高くしているのであり、避難生活に対して適切な支援がなされていればこうしたストレスは軽減できるという説明である。後者の立場から、避難生活や支援の実態を分析し、望ましい支援や避難のあり方について提示していくのが社会学的応答であろう。

(…)

 * *
 
 「なぜ自主避難者が被災者といえるのか」といった論点をめぐって、いくつかの社会学的説明をとりあげてきた。もちろんこうした議論では、自主避難者が「被災者」であることの説明としては不十分とする見方−−低線量被爆には科学的根拠がない、科学的根拠のない「不安」に支援の必要はない、といった見方−−もあるだろう。ここでは「科学的エビデンス」をめぐる議論に立ち入るつもりはないが、法的基準の放射線量を超える地域に子どもたちが暮らしているということ、そして、低線量放射被爆のリスクは不確定のグレーゾーンであるということが議論の出発点であることを確認しておきたい。

 そのうえで、自主避難者だけでなく、避難できない人たちも含め、長期の時間軸のなかで被災を論じる土台を準備しておく必要がある。現実に福島やその周辺の地域において、健康被害が目に見えるようになったとき、「不安」を批判する言説自体が、「加害」の側の言説として再定義されるかもしれない。さらには、「なぜ一部の人が避難しているのか」から「なぜ多くの人々は避難しなかったのか」と議論が反転する可能性もある。(避難区域以外では)リスク認知も、避難行動も「自己責任」に委ねられている構造の説明をしていくこと、そのうえで誰がどのような支援を受けるべきかをめぐる価値判断と、その具体策について提言していくこと。これら、経験科学、規範科学、設計科学としての要素が不可分に絡み合った被災の公共社会学が、今後何十年にわたって重要な役割を果たすと思われる。






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2015年05月19日

ミシェル・フーコー「死に対する権利と生に対する権力」

 (…)生に固有の運動と歴史の様々なプロセスが互いに干渉し合う際の圧力現象を「生−歴史((ビオ・イストワール))」と呼ぶことができるならば、生とそのメカニズムをあからさまな計算の領域に登場させ、〈知である権力〉を人間の生の変形の担い手に仕立てるものを表すためには、「生−政治((ビオ・ポリチック))」を語らねばなるまい。それは、生が余すところなく、生を支配し経営する技術に組み込まれたということでは毫もない。生は絶えずそこから逃れ去るのだ。西洋世界の外では、飢饉は常に存在するし、しかもかつてないほど深刻なスケールで存在している。そして人類という種が蒙る生物学的危機は、微生物学誕生の前よりおそらく大きいし、少なくともより深刻である。しかし一社会の「生物学的近代性の閾」と呼び得るものは、まさに人間という種が己自身の政治的戦略の中にその賭金=目的として入る時点に位する。人間は数千年のあいだ、アリストテレスにとってそうであったもののままでいた。すなわち、生きた動物であり、しかも政治的存在であり得る動物である。近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて存在する生そのものが問題とされているような、そういう動物なのである。

 (…)

 〈生−権力〉のこのような発達のもう一つの結果は、常態((ノルム))というものの働き=規準が、法のもつ法律的システムを犠牲にしていよいよ重要になったことである。法は武装しないでいることはあり得ないのであって、その武器の最たるものは死である。法を侵犯する者たちに対して、法は、少なくとも最後の手段としては、この絶対的脅迫によって答える。法は常に剣を用いるのだ。しかし生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち強制的に働くメカニズムを必要とするはずだ。もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。このような権力は、殺戮者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ。服従する臣下から、君主の敵を切り離す千を引く必要はない。規準となる常態のまわりに配分する作業をするのだ。私は、法が消え去るとも、裁判の諸制度が消滅する傾向にあるとも言うつもりはない。そうではなくて、法はいよいよ常態=規準として機能するということであり、法律制度は、調整機能を専らとする一連の機関(医学的、行政的等々の)の連続体にますます組み込まれていくということなのだ。正常化を旨とする社会は、生に中心を置いた権力テクノロジーの生み出す歴史的な作用=結果なのである。

 (…)政治的対象としての生は、ある意味では文字通りに受け取られて、それを管理しようと企てていたシステムに逆らうべく逆転させられるのだ。権利よりも遥かに生のほうが、その時、政治的闘争の賭金=目的となったのであり、それはこの闘争が権利の確立を通じて主張されたとしても変わりはない。生命への、身体への、健康への、幸福への、欲求の満足への「権利」、あらゆる弾圧や「疎外」を超えて、人がそうであるところのもの、人がそうありうるところのすべてを再発見する「権利」、古典的な法律体系にはかくも理解を超えた「権利」、それはこのような新しい権力の新しいやり方のすべてに対する政治的対応であったが、しかしこの権力のやり方自体が、そもそも主権という伝統的権利に基づくものではないのである。

  *

 このような背景の上に立って、性が政治的賭金=目的として重要さを獲得したことも理解され得る。それは、性が、〈生に基づく政治的テクノロジー〉のことごとくが発展を見た二つの軸の繫ぎ目に位するからである。一方では性は、身体の規律に属する。身体的な力の訓練と強化と配分であり、エネルギーの調整とその生産・管理である。他方では、性は、それが誘導するすべての総体的作用を通じて、住民人口の調整・制御に属する。性は同時に二つの領分に組み込まれるのだ。それは無限に細かい監視と、あらゆる瞬間における管理統制と、細心の空間的配備と、無際限の医学的・心理学的検査と、身体に対する一連の〈微小権力〉とを引き起こす。しかしそれはまた、大々的な措置や統計学的測定、社会体〔社会構成員〕の全体あるいは様々な集団の全体を対象とした介入を引き起こしもする。性は、身体の生というものへの手がかりであると同時に、種の生というものへの手がかりでもあるのだ。人は性を規律の母系としても用いるし、調整の原理としても用いる。だからこそ19世紀には、性的欲望は人間生活の最も取るに足らぬ細部にまで追跡されたのだ。それは行動の中から狩り出され、夢の中で追い廻される。僅かな狂気の影にも性的欲望の働きを疑ってみるし、幼児期の最初の年齢にまでもそれを追いつめていく。性的欲望は各人の個性の暗号となる、つまり個人を分析することを可能にするものであると同時に、個人を調教することをも可能にするものなのだ。しかし同様に、それは政治的操作のテーマ、経済的介入のテーマとなり(生殖への唆かしあるいは抑制によってである)、また、教化あるいは責任賦与のイデオロギー的キャンペーンのテーマとなる。(…)

 そこから、二世紀この方、それに沿って性の政治が前進してきた四つの大きな攻撃ラインの重要さが生じる。その一つ一つが、規律に関する技術と調整の技法とを結び合わせるやり方だったのである。最初の二つは調整の要請に支えを見出して−−種と子孫と集団的健康というテーマ系の上にであるが−−規律のレベルで効果を手に入れようとした。少年の性への組み込みは、種族の健康のためのキャンペーンという形でなされた(早熟な性的欲望は、18世紀から19世紀末まで、成人の将来の健康を脅かすだけではなく同時に社会と種全体の未来を脅かす危険のある流行性の脅威として説明されてきた)。女のヒステリー化は、その身体と性の綿密な医学への組み込みを必要としたわけだが、それは、彼女らがその子供たちの健康に対して、家族制度の堅牢さに対して、社会の安寧に対してもつはずの責任の名においてなされた。産児制限と性倒錯の精神医学への組み込みについて働いたのは、逆の関係である。そこでは介入は調整的な性質のものだったが、しかしそれは個人の規律と調教に支えを見出さねばならなかった。一般的に言って、「身体」と「人口問題」の接点にある性は、死の脅威よりは性の経営のまわりに組織される権力によって中心的な標的となるのである。

 血は長いこと、権力のメカニズムの内部で、権力の顕現と典礼の内部で、重要な要素であった。婚姻のシステムと、主権者=君主の政治的形態と、位階・階層による差別と、家系の価値とが支配的である社会にとって、飢饉と疫病と暴力とが死を切迫したものにしている社会にとって、血は本質的な価値の一つをなしている。(…)血は象徴的機能をもつ現実である。我々のほうはといえば、我々は「性((セックス))」の社会に、というかむしろ「性的欲望((セクシュアリテ))をもつ」社会に生きている。権力のメカニズムは、身体に、生に、生を増殖させるものに訴えかけ、種を、種の力を、その支配能力を、あるいはまたその用いられる適用性を強化するものに訴えかける。健康、子孫、種族、種の未来、社会体の活力といったものである権力は、性的欲望について語り、性的欲望に対して語りかける。性的欲望は徴あるいは象徴ではなく、対象であり、標的である。しかもその重要さをなすものは、その稀少性あるいは一時性であるよりは、その執拗さ、その油断ならぬ現前であり、それが至るところで燃え上がらされていると同時に恐れられているという事実である。権力はそれを描き出し、掻き立て、増殖する意味としてそれを用いるが、しかしこの意味が逃れ去らないようにと常に統御しておかなければならないのだ。性的欲望は意味の価値をもつ作用なのである。(…)古典主義の時代に準備され19世紀に実行に移された権力の新しい仕組みこそが、我々の社会を血の象徴論から性的欲望の分析学へと移行させたのである。すでに明らかなように、もし法や死や侵犯の側に、象徴的なるものや君主権の側に属する何かがあるとすれば、それは血である。性的欲望のほうは、規準=状態、知、生、意味、規律、調整といったものの側にあるのだ。(pp. 180-187)


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