2015年04月30日

水岡不二雄「ネオリベラリズムとは何か」ネオリベラリズムのパラドクス

5.ネオリベラリズムのパラドクス


 論理構成は周到であっても、いまや現実に、ネオリベラリズムは危機に直面している。その資本蓄積の根幹である金融経済は深刻で回復困難な危機に苛まれ、その社会統合の様式は、格差拡大の現実のもとに破綻をきたした。

 市場原理主義が唱える平等と収斂というかりそめの福音のもと、零細な投資家が、株式や外国為替の投機に馳せ参じても、ほとんどの場合、少数の「勝ち組」によって、大多数の「負け組」の資金が巻き上げられてゆく。はじめのうち、市場原理主義思想に共鳴し、ネオリベラリズムの政策が政府の無駄をなくし、自ら努力さえすれば「痛みを伴う改革」を通じて自分たちにも平等に富裕をもたらしてくれるはずと信じていた一部の民衆は、ネオリベラリズムの機会の平等とは名ばかりで、むしろ富者と貧者の格差は拡大し、公共の福祉は乏しくなり、公共インフラが腐朽してゆく現実に直面して、市場原理主義思想から離れ始め、虐げられた99%の一員だという自覚をもちはじめた。

 いまや多くの民衆が、ネオリベラリズムで利益を得た1%の少数派との闘いにたちあがっている。市場原理主義者はなお「負け組」の人びとに、「貧しくなったのは自己責任だから制度ではなく自身を責めよ」、「成功者を羨むな(no envy)」と声をからして説教し続ける。だが、いったん市場原理主義が用意したイデオロギー装置による社会統合が破綻して民衆が市場原理主義思想を拒否しはじめれば、たちどころに巨大な政治変動が生ずることとなる。

 民主主義的普通選挙という政治システムを維持している諸国において、民衆は、新古典派経済学者が説く「ドル紙幣による投票」を去って、「民主主義による投票」に回帰した。格差拡大は貧しい人々の利益を代表する政党やその社会運動への支持を増大させ、ネオリベラリウムを推進する政治勢力が政権を握り続けることは難しくなってきた。しかし、ネオリベラリズムが「自由主義」を形式的にせよ標榜する限り、一人一票の自由選挙という市民的政治制度を抑圧できないジレンマがある。

 この政治現象は、2009年夏の日本で、小泉・竹中氏の政治路線のアンチテーゼである民主党政権への政治交代として表出した。ラテンアメリカの国々、アジアの一部諸国、そして「欧州経済危機」に直面した欧州の国々で、ネオリベラリズムを拒否する政治勢力が選挙で次々と勝利を占めるに至っている。これこそ、ネオリベラリズムという調整様式自体の中にはらまれた否定の契機にほかならない。いまやこの「新自由主義のパラドクス」と呼ばれる政治過程が、グローバルな規模で炸裂している。

 ただ市場原理主義者たちだけが、このパラドクスの社会的脈絡を理解できない。自分たちの思想の基礎にある新古典派経済学の数理的エレガンスに幻惑され、それに絶対的に帰依している市場原理主義者たちは、自分たちの「合理性ある主張」に従わない者たちを非合理の世界に生息する異教徒だと見下し続けているからである。悔い改めねばならないのは市場原理主義者か、それとも民衆か。今や民衆は、その答えを、選挙をつうじて市場原理主義者たちに突きつけはじめた。

 資本蓄積についてみると、金融を基幹部門に据えた各国の金融機関や政府は、重大で解決困難な経済危機に繰り返し苛まれるようになった。打ち続くグローバルな金融危機は、高度な金融技術に支えられすれば資本主義は安定的な成長を永遠に遂げるはずだという資本家の期待を、粉みじんに打ち砕いた。グローバルな金融システムは、ネオリベラリズムの本家である合衆国に発する危機にのみこまれ、アイスランドのように、市場原理主義に幻惑されてマクロ経済の軸足を金融に深くのめりこませた国ほど、経済的信認に大きな傷がついた。金融とは日々経済関係が移ろう本質的に不安定な存在で、調整様式における資本蓄積の根幹を担えないという事実が、白日にもとにさらされた。

 だが残念なことに、ネオリベラリズムのパラドクスの帰結として成立した非ネオリベラリズム政権が、その後有権者の期待に応える成果をあげたとはいい難い。それは、ネオリベラリズムを代替する、第三の資本主義の調整様式が用意されていないからである。

 これらの非ネオリベラリズム政権には、日本の民主党が2009年の選挙のさい出したマニフェストにみられるとおり、消費面にフォーディズムを回帰させ、社会統合を取り戻そうとする志向が強い。だが、フォーディズムの時代のように、そのような政策を支える資金を企業や財政から獲得することは必ずしも容易でない。「財源問題」が常に攻撃にさらされ、フォーディズムへの回帰という政治路線は、容易に弱体化してしまう。政権交代を託した民主党に日本の民衆は幻滅し、支持を失った主張はめまぐるしく交代して、政治的不安定が常態となった。

 政治の無能力に飽きたらなくなった有権者は、欧州各国の選挙結果に現れているとおり、極右政党、極左政党、アナーキストなど、より先鋭的な主張を打ち出す政治集団を選択するようになっている。日本において、民主党への強い失望や事実上放棄されたマニフェストに騙されたという有権者の感情が、維新の会の橋本氏の高人気につながったのも、同じ流れである。

 こうして、資本主義の経済と政治は、世界各地で、著しい変動と混乱にたたきこまれることとなった。





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水岡不二雄「ネオリベラリズムとは何か」ネオリベラリズムの調整様式

4.聖なる三位一体−−ネオリベラリズム、市場原理主義、そして新古典派経済学

 ネオリベラリズムは、民営化、規制緩和、社会保障切り下げなどを含む、一連の政策パッケージとして現実に存在する。「公正と効率とのトレードオフ」が唱えられ、富裕層に重課税することは経済の効率性を損なうとして政府の所得再分配が否定される一方、不安定化・流動化した雇用で大多数の労働者の所得は増えない。このような政策のもと、格差は必然的に拡大してゆく。にもかかわらず、ネオリベラリズムの諸政策が広く一般の民衆に支持されるためには、それを十分に正統化する、周到に構築されたイデオロギーが必要である。

 このイデオロギーとは、サッチャー英首相が、「市場には代替がない(There is no alternative, TINA)」喝破した、市場原理主義思想である。市場原理主義者は、市場こそ、経済・社会を組織する唯一そして市場の原理なのであり、市場原理を現実の経済・社会政策にあまねく貫徹させ、すべてを見えざる手に委ねれば経済・社会が最もうまくゆくはずだ、と確信を述べる。すなわち、ネオリベラリズムは、単なる市場経済と同義ではなく、非市場的な経済・社会組織を排除して、経済・社会のすべての部面を市場で純化すべきとする、異端を認めない原理主義思想に裏付けられている。

 特定の教義で現実を純化すれば全てがうまくいくとする思想は、イスラム原理主義やキリスト教原理主義などととして、宗教の世界でなじみ深い。では、コーランや聖書に相当する市場原理主義の聖典は何か。それは、新古典派経済学、とりわけミクロ経済学の教科書・論文である。ネオリベラリズムの調整様式においては、それが非妥協的に絶対化される。

 新古典派経済学は、その理論構築のため、いくつもの人間行動における単純化を行う。これらの前提はもともと、複雑な現実を経済理論に抽象して理論を単純化する便法にすぎなかったのであるが、市場原理主義は、この前提を、すべての現実の人々がとるべき行動規範に高めてしまった。市場原理主義者は、日曜日のキリスト教会で司祭が聖書からの一句を引き合いに出して説教するのとおなじように、新古典派経済学の前提どおりに行動するよう人々を説得する。背教者は地獄に落ちると恫喝する宗教同様、市場原理主義においても、ミクロ経済学の教典に書いてある前提どおりに行動しなければ経済・社会で「負け組」になると恫喝する。

 絶対的な聖典を奉る司祭としての性格を反映し、新古典派経済学者たちは、ネオリベラリズムのもとで極めて排他的・非寛容な行動様式をとる。例えば、新古典派経済学こそ唯一絶対に正しく優れた経済学の教義であるのだから、新古典派経済学者によっては、大学の経済学部において、新古典派以外の経済学が講じられ、新古典派以外の教員が在籍していること自体が許されない。マルクス経済学はもとより、政府の介入により完全雇用をめざす伝統的なケインズ経済学でさえ、経済学部から徹底的に排除されるべき異端とみなされる。そこに、学問の多様性や自由などといった観念が入り込む余地はない。

 キリスト教やイスラムの教義を解釈することは、特権的な神学者のみに許される。このことが教義の権威を高めている。新古典派経済学では、理論が高等学校の数式や難解なグラフによって展開され、教義の権威・神秘性と解釈の特権性が、いやがうえにも強められている。そして、新古典派経済学が、社会科学であって、宗教の聖典ではないという公式の外見は、それを基礎に据えた市場原理主義とネオリベラリズムの政策に、一見した客観性と中立性を付与している。

 民衆に畏怖を感じさせるその教義には、キリスト教における「千年王国」と同じく、遠い未来についての福音も用意されている。すなわち、すべての人々が、これまでの非市場的な行動や思想を悔い改め、新古典派経済学の諸前提が指し示す行動様式を受け入れさえすれば、神の見えざる手によって市場の諸変数は収斂し、調和と均衡がもたらされ、やがて地上に平等の至福が降臨する、と予言される。その予言の実現に必要な前提こそ市場原理の純化なのであるから、すべての人々はその正統性を認めて、「痛みを伴う改革」を目指す諸政策を受け入れ、経済諸変数の収斂という遠い未来における救済に望みをかけつつ、競争に馳せ参じなければならない。

 このように、宗教の論理と市場原理主義の論理とのあいだには、ベックとティッケルが既に指摘しているとおり、驚くほどの相同性がある。

 とはいえ、新古典派経済学は宗教ではなく科学ということになっているから、前提と資本主義の客観的現実との違いは、より深刻な問題である。新古典派経済学において市場を構成しているのは原始的経済人であるが、現実の資本主義を支配しているのは、いうまでもなく、多国籍化した巨大寡占企業である。そこで、市場原理主義は、この理論と現実とのあいだのギャップに貼るパッチを用意しなくてはならない。個々の民衆を、なんとか原子的経済人に擬制しなくてはならないのである。

 その一つに、「株主資本主義」の論理がある。すなわち、トヨタのような巨大企業を個々の原子的な経済主体が起業することはできないが、これらの企業の株を個人投資家として買うことならできる。そこで、各個人が株を買い、「物言う株主」として行動するならば、市場原理主義の前提は満たされる、とするのである。また、労働者を労働基準法の適用がない「業務委託契約」による不安定に雇用することこそ、個々の労働者を、独立した原子的経済人として尊重することになる、という発想もある。このように、ネオリベラリズムの諸政策は、市場原理主義を裏付ける新古典派経済学の理論に、一見した客観性を与えるように機能している。

 以上を要するに、ネオリベラリズムという新たな調整様式は、三つの要素の垂直的な重合によって成り立っている。もっとも基底にあるのは、新古典派経済学、とりわけミクロ経済学の理論である。それで世界を純化することを唱える市場原理主義は、この経済学の教義をあたかも聖典のように位置づけ、もともと理論の抽象化のため謙虚に設けられた前提を人間の規範的行動原理に祀りあげ、現実に個々人がとるべき実践の模範を提示する。そして、この思想によって正統性を与えられた経済・社会諸政策を、政府が推進する。これが、現実に存在するネオリベラリズムとなる。

 ネオリベラリズムの調整様式は、このような論理構成をもった総体をなしている。この三位一体の周到な設計こそ、調整様式としてのネオリベラリズムに正統性の観念を与え、社会統合を可能とした根拠にほかならない。





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2015年04月27日

正常性

・”This neologism ((normate)) names the veiled subject position of cultural self, the figure outlined by the array of deviant others whose marked bodies shore up the normate’s boundaries. The term normate usefully designates the social figure through which people can represent themselves as definitive human beings. Normate, then, is the constructed identity of those who, by way of the bodily configurations and cultural capital they assume, can step into a position of authority and wield the power it grants them.” (Garland-Thomson, Extraordinary Bodies: 6)

・"Naming the figure of the normate is one conceptual strategy that will allow us to press our analysis beyond the simple dichotomies of male/female, white/black, straight/gay, or able-bodies/disabled so that we can examine the subtle interrelations or able-bodies/disabled so that we can examine the subtle interrelations among social identities that are anchored to physical differences." (Garland-Thomson, Extraordinary Bodies: 6)

・"To understand the disabled body, one must return to the concept of the norm, the normal body. (...) I would like to focus not so much on the construction of disability as one the construction of normalcy. I do this because the 'problem' is not the person with disabilities; the problem is the way that normalcy is constructed to create the 'problem' of the disabled person." (Davis, Enforcing Normalcy: 23-24)

・"The disciplines of normality are preconditions of participation in every aspect of social life, yet they are unnoticed by most adults who can conform to them without conscious effort. Children are very aware of the requirements of notmality: among children, conformity to standars of normality in body size, carriage, movement, gesture, speech, emotional expression, appearance, scent, ways of eating, and especially control of bodily functions such as salivation, passinggas, urination, and defecation, are enforced by teasing, taunting, and the threat of social ostracism, beginning at an early age. (When I was a child in New York City public schools, peeing in your pants in school or on the playground was one of the most shameful things that could happen to you; nothing you might do deliberately, no matter how morally rotten, could compare in shamefulness.) Rhose of us who can learn to be or seem 'normal' do so, and those of us who cannot meet the standards of normality usually achieve the closest approximation we can manage." (Wendell, The Rejected Body: 88)

・"The disciplines of normality, like those of femininity, are not only enforced by others but internalized. For many of us, our proximity to the standards of normality is an important aspect of our identity and our sense of social acceptability, as aspect of our self-respect. We are unlikely to notice this until our ability to meet the standard is threatened in some way. An injury or a prolonged illness often draws the attention of non-disabled people to this previously unnoticed facet of their self-images. For people who already have disabilities, the prospect of more disability can have the same effect. Shame and self-hatred when we cannot measure up to the standards of normality are indications that they are enforced by a powerful internalized disciplinarian." (Wendell, The Rejected Body: 88-89)

・"People who do not appear or act physically 'normal' draw attention to the disciplines of normality, just as women who do not practice the disciplines of femininity make them more apparent. In both cases, there are rules at work, but most of us are trying to ignore the existence of the rules, trying to pretend that things are 'naturally' and effortlessly the way they seem, not socially enforce. (...) Moreover, since almost everyone tries to appear as 'normal' as possible, those who appear clearly 'abnormal' according to their society's standards are constant reminders to those who are currently measuring up that they might slip outside the standards. In this aspect, people with disabilities arouse fear. But they are also reassuring, in that encountering them can make 'normals' feel more 'normal' by comparison (which is turn may arouse guilt). These reactions are completely understandable, given the disciplines of normality, and they all contribute to the 'Otherness' of people with disabilities." (Wendell, The Rejected Body: 89)


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