2015年03月30日

ハリエット・マリノウィッツ「クィア・セオリー:誰のセオリー?」

『現代思想 総特集 レズビアン/ゲイ・スタディーズ』1997年、vol. 25-6、pp. 202-218
(Malinowitz, Harriet. 'Queer Theory: Whose Theory?' Frontiers: A Journal of Women Studies Vol. 13, No. 2 (1993), pp. 168-184)

1980年代半ばに、エイズ危機と全米に瞬く間に広まったホモフォビアの再来によって起こった新しい「コーセクシュアリズム cosexualism」の結果として、後に新たな「クィア・アクティヴィズム」として知られるようになる動きが起こった。(p. 205)


クィア理論は確かにクローゼットから出てきたかもしれないが、だからといって表通りにまで出てきたわけではない。(中略)現在のクィア理論家のネットワークは、著名な研究機関が占める割合が圧倒的であり、仲間内だけで論文のやりとりをして、最新版の大辞典でもまた掲載されていないようなポスト構造主義の用語を使って、内輪の論文を互いに引用しあい、さらに圧倒的に白人の占める世界なのである。それは私たちのほとんどが住めないような高級住宅地にある、その住民だけが入れる社交クラブに似ていなくもない。(pp. 205-206)


ホモフォビアの攻撃を受けながら、私たちは理論的可能性を政治的な有効性という領域に過度に閉じこめてしまってきた。クィア理論は、何が我々にとって利益かとか、その利益をどうすれば獲得できるかなどという直接的、実用的な考察を超越し、戦略を立てるときに利用する前提そのものを議論の対象にする。例えば、レズビアンやゲイの活動家のグループが公民権実現の妨げになっているものを攻撃するのに対し、クィア理論の理論家の関心は、「権利」とは何か、誰がその権利を与えるのか、またそもそも誰がそれを想像するのか、何が権利を「剥奪できない」ものにしているのか、どのような信条が私たちの「資格」という意識を形成しており、また「資格」のある人々の範疇を決定しているのか、などの疑問を考察するところにある。(p. 206)


アイデンティティは固定化され、首尾一貫していて、均質的な分類によってきれいに整理され得るのだ、という古い想定が打ち砕かれつつあるのである。(p. 206)


『インサイド/アウト』は、アイデンティティにしても社会的背景にしても、はっきりと仕切りを設けることなどできないのだと主張し、それ自体の批判のための視点を提供している。セクシュアリティ、人種、ジェンダー、そして階級は、ひとつの領域内のはっきりと区分された区画を占めるのではなく、むしろ共通の土壌を育成しているのだ。(p. 214)



ラベル:クィア
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河口和也「不可視化する「同性愛嫌悪」」

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河口和也「不可視化する「同性愛嫌悪」−−同性愛者(と思われる人)に対する暴力の問題をめぐって」金井淑子・細谷実編『身体のエシックス・ポリティクス−−倫理学とフェミニズムの交叉』(ナカニシヤ出版、2002年、pp. 119−139)

・「ゲイ・スタディーズの研究者であるデイヴィッド・ハルプリンは、フーコーの影響のもと、レズビアンとゲイの理論家たちが、同性愛と異性愛の関係について二つの互いに関係した説を展開していると述べている。方法論の一つは、脱構築、もう一つは精神分析である。

 脱構築によれば、「ホモセクシュアル」は自律的な実体のあることばではなく、「ヘテロセクシュアル」の定義を補完するものでしかない−−異性愛のアイデンティティを安定させる一つの手段なのだ。精神分析によれば、「ホモセクシュアル」とは想像的な「他者」であり、そのどぎつい「差異性」のおかげで、ヘテロセクシュアリティという構築物に内在する矛盾から注意をそらすことができる。ヘテロセクシュアリティはまさにその内的な矛盾を断固として無視しつつ、そうした矛盾をしっかりと保ち、強化することによって繁栄するのだが、それは「ホモセクシュアル」なるものを構築し、巧みに操ることによって可能になるのである。(Halperin 1995 → 1997: 67)

このハルプリンの言葉をごくごく簡単にまとめれば、同性愛は実体ではなく、(異性愛に対する)想像的な「他者」であり、したがって、本来は明確には引けない異性愛と同性愛のあいだの境界を維持するために、異性愛は同性愛を必要としつつ、異性愛内部に生じる矛盾をいっきに同性愛に放逐しているということなのだ。そして、ハルプリンは語気強く言う。「「ホモセクシュアル」は、自然種につけられた名ではなく、投影であり、あらゆる種類の相互に相容れない、論理的には矛盾する観念が投げ捨てられる記号論的ゴミ捨て場である」と。(Halperin 1995 → 1997: 69)」(pp. 122-123)
 *『聖フーコー−−ゲイの聖人伝に向けて』

・「キャロル=アン・タイラーはパッシングに関して新たな視点を提示し、つぎのように指摘する。

 パッシングは名刺が主語になるような形態をもたない動詞であるというのは適切であるように思われる。というのも、それは行為体が曖昧にされ、潮流に逆らって泳ぐというよりもむしろ奔流に沈められてしまっており、その徴を探すような略奪的な目に対しては不可視であるような活動であるからだ。(Tyler 1994: 212)

(中略)「何か」と「何か」のあいだにあると思われる「境界」とは、実は最初から存在するものではないということになるのではないか。むしろ、この「境界」は、パッシングするという行為によって、事後的に行為遂行的に作られるのである。」(p. 125)

・「クローゼットは、それ自体で存在するのではなく、むしろ同性愛の露見とともに可視的になるものなのだ。つまり、クローゼットから出るという行為、すなわちカミングアウトをつうじて、まさに事後的にクローゼットの存在は確認される。」(p. 127)

・「ケンドール・トーマスは、同性愛嫌悪による暴力とテロ行為による暴力は次のいくつかの点において、類似していると述べる。
 まず第一に、テロリズムの場合と同じく、ゲイ男性とレズビアンに対する暴力の多くは、その恣意性・無差別性(randomness)を特徴としてもっているという。ひとりひとりが、ゲイあるいはレズビアンのアイデンティティの肯定あるいはそれに属していることが、同性愛嫌悪による暴力の潜在的な標的として徴づけられることを知っているだろう。しかし、自分たちが実際に襲撃されるかどうか、あるいはいつ襲撃されるのかはそのときになるまでわからないのである。テロリストと同じように、同性愛嫌悪による暴力を行使する者はなんの警告もなく襲撃を行なう。テロリズムと同性愛嫌悪による暴力に共通する第二の特徴は、その完全な非人格性である。テロ行為の犯人と同じように、ゲイやレズビアンを襲う者は被害者について知らないし、被害者からも知られていないのだ。
 同性愛嫌悪による暴力がテロリズムと共有しているもうひとつの特徴は、その徹底的な「伝達的(communicative)」襲撃である。(中略)ゲイ男性とレズビアンに対する暴力の「過剰殺戮と行き過ぎの毀傷」という特徴は、その形態が表現的な内容を伝える暴力の種類であることを示唆している。すなわち手段がメッセージであるのだ。(Thomas 1995: 287-288)」(pp. 129-130)

・「トーマスは、同性愛嫌悪による暴力は、「制度の一形態(a form of institution)」であると考えている。「同性愛嫌悪による暴力は「様々な役割や位置、権力や機会を確定する諸規範によって、すなわち起きたことの責任を分かち合うことによって構造化されている」社会的な活動」なのである。」(p. 131)

・「セジウィックは「ホモフォビアとは、特定の弾圧を少数派に加えることによって、多数派の行動を統制するメカニズムである」という。「ホモソーシャリティ」という男性の社会的な絆を概念化する彼女は、それによって結ばれた関係によって構造化された集団、すなわち「男たち」という多数派の行動を管理するメカニズムとしてホモフォビアを考えることができるとしている。その場合、統制管理の方法としての「大虐殺」と「テロ行為」を峻別する。「大虐殺」の場合には、対象は明白に規定されており、その対象以外の者は、虐殺の恐怖を免れることになる。その反面、テロ行為は「男同士の絆に加える梃子の力、それも最小限の力で最も効率よく男性を管理する力」なのである。すなわち、誰が標的にされるかわからないという恐怖を広めるだけで、ほぼすべての人間の行動を規制することが可能になるのだ。「……その効力を維持するためには、いつその力を加えるのか、男性にはわからないようにしておき、しかもその力を加えるのは、規制されているとおぼしき「犯罪」を本当に男性が犯すときなのかどうか、曖昧にしておかなければならない。」(中略)さらにこの管理方法で巧妙かつ有益な戦略は「自分は同性愛者ではない」(すなわち他の男性との絆が同性愛的ではない)という確信を誰一人としてもちえないようにしていることである。(Sedgeick 1985 → 2001: 134-135)」(pp. 131-132)
 *イヴ・K・セジウィック『男同士の絆−−イギリス文学とホモソーシャルな欲望』






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2015年03月26日

クィア・ネガティヴィティ

Edelman, Lee. (2004) No Future: Queer Theory and the Death Drive, Durham & London: Duke University Press.



In No Future, Lee Edelman polemicizes the rhetoric of futurity underwriting a political discourse and social order that is, as he maintains, violently heteronormative. The connection among the political, the social and the heteronormative is evident in the figure of the Child, whose innocence ‘we' are supposed to protect by fighting for a ‘better' future. Acting in the name of the Child results in a shared investment in the future and thus secures identifications and collective beliefs in the present.

For Edelman, the ‘reproductive futurism' expressed through the figure of the Child is problematic as it rejects those not seeking to live for or define themselves against the future (4). Queers, he argues, have a more problematic relationship with reproductive futurity and everything it entails. The main issue is not that queer sexuality is non-reproductive (even though it may very well be). More importantly, Edelman positions queerness within a Lacanian framework and associates it with negativity, the refusal to secure meaning through the anticipation of a single and stable future. In turn, queerness makes problematic stable constructions of the self and resists identity politics and social order.

Instead of finding ways of including queers within a liberal political discourse of reproductive futurism, Edelman calls for an embrace of queer negativity.


For politics however radical the means by which specific constituencies attempt to produce a more desirable social order, remains, at its core, conservative insofar as it works to affirm a structure, to authenticate social order, which it then intends to transmit to the future in the form of its inner Child. (pp. 2–3)
 
* Our very conception of the "political" is shaped by a presumption of "reproductive futurism" embodied in figures of childhood innocence.

outside the framework within which politics as we know it appears....Queerness names the side of those not 'fighting for the children,' the side outside the consensus by which all politics confirms the absolute value of reproductive futurism. (p. 3)


The queer comes to figure the bar to every realization of futurity, the resistance, internal to the social, to every social structure or form. (p. 4)


the death drive names what the queer, in the order of the social, is called forth to figure: the negativity opposed to every form of social viability. (p. 9)


we are no more able to conceive of a politics without a fantasy of the future than we are able to conceive of a future without the figure of the Child. (p. 11)


Queerness "can never define an identity; it can only ever disturb one. (p. 17)


Bernard Law, the former cardinal of Boston, mistaking (or maybe understanding too well) the degree of authority bestowed on him by the signifier of his patronymic, denounced in 1996 proposed legislation giving health care benefits to same-sex partners of municipal employees. He did so by proclaiming, in a noteworthy instance of piety in the sky, that bestowing such access to health care would profoundly diminish the marital bond. "Society," he opined, "has a special interest in the protection, care and upbringing of children. Because marriage remains the principal, and the best, framework for the nurture, education and socialization of children, the state has a special interest in marriage." With this fatal embrace of a futurism so blindly committed to the figure of the Child that it wilI justify refusing health care benefits to the adults that some children become, Law lent his voice to the mortifying mantra of a communal jouissance that depends on the fetishization of the Child at the expense of whatever such fetishization must inescapably queer. Some seven years later, after Law had resigned for his failure to protect Catholic children from sexual assault by pedophile priests, Pope John Paul II returned to this theme, condemning state recognized same-sex unions as parodic versions of authentic families, "based on individual egoism" rather than genuine love. Justifying that condemnation, he observed, "Such a 'caricature' has no future and cannot give future to any society." Queers must respond to the violent force of such constant provocations not only by insisting on our equal right to the social order's prerogatives, not only by avowing our capacity to promote that order's coherence and integrity, but also by saying explicitly what Law and the Pope and the whole of the Symbolic order for which they stand hear anyway in each and every expression or manifestation of queer sexuality: Fuck the social order and the Child in whose name we're collectively terrorized; fuck Annie; fuck the waif from Les Mis; fuck the poor, innocent kid on the Net; fuck Laws both with capital Is and with small; fuck the whole network of Symbolic relations and the future that serves as its prop. (pp. 28-29)


We, the sinthomosexuals who figure the death drive of the social, must accept that we will be vilified as the agents of that threat. But“they,” the defenders of futurity, buzzed by negating our negativity, are themselves, however unknowingly, its secret agents too, reacting, in the name of the future, in the name of humanity, in the name of life, to the threat of the death drive we figure with the violent rush of a jouissance, which only returns them, ironically, to the death drive in spite of themselves. (p. 153)


negating our negativity ... only returns them, ironically, to the death drive in spite of themselves. (p. 153)



*****
Edelman, Lee. (2006) “Antagonism, Negativity, and the Subject of Queer Theory”

・“The aim of queer negativity [is] to face up to political antagonism with the negativity of critical thought.”(822)

・"No Future ... approaches negativity as society's constitutive antagonism, which sustains itself on the promise of resolution in futurity's time to come, which sustains itself only by finding and exploiting new markers. As the figure of nonproductivity, then, and of the system's ironic incoherence, the queer both threatens and consolidates the universal empire of the Futurch. But what threatens it most is queer negativity's refusal of positive identity through a drivelike resistance to the violence, the priginary violation, effected as Adorno writes, 'by the all-subjugating identity principle" (822).
ラベル:クィア
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