2015年02月28日

マーサ・ヌスバウム『女性と人間開発−−潜在能力アプローチ』岩波書店(pp. 41-48)

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女性と人間開発 潜在能力アプローチ

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■ヌスバウムの目的
・「どんなことにもすぐに噛みつこうとする国際的フェミニズムは、文化、国家、宗教、民族、階級などの境界を越えて規範的な勧告を行っていることになる。そのためには、その活動にふさわしい記述的で規範的な概念を見つけておく必要がある。」(pp.41−42)
・=自由・平等といった価値を文化、国家、宗教、民族、階級などの境界を越える(=普遍的な)規範として打ち立てる。

■pp.41-48
・それは、理論の押し付けか?
 ・(批判者の主張)「何が正しく適切であるかについて自分自身の考えをはっきりと持っている人々に対して、理論家は何か別のものを押し付けているのでないか」。(p.42、L9)
 ・(上記批判に対するヌスバウムの応答)「私は、理論を十把一絡げに非難することは深刻な誤りであると確信しており、理論の体系だった議論には、私たちの混乱した考えを整理し、不公正な社会的現実を批判し、私たちを知らない間に不公正に加担させる自己欺瞞的な正当化を防ぐといった重要な実践的機能があると考える。さらに、理論には、哲学に通じていない普通の人にも、現実に起こっていることについて考える枠組みを示し、それがなければ世間の目立たない所で人知れず潜んでいたかもしれない悪弊を批判する概念を与えるという実践的な価値があることもまた明らかである。」(p.43、L4)

・それは、植民地化か?
 ・(批判者の主張)「バサンティやジャヤンマのような人たちの生活を評価するために公正・人権・「人間の機能」といった普遍的な正義の言葉を用いる今日の国際的フェミニストは、西洋化や植民地化に加担している」。(p.44、L2)
 ・(上記批判に対するヌスバウムの応答)「「西洋化」という非難は、変化を求める勢力の信用を傷つけることを狙いとした陰険な政治戦略のように見える。西洋的な考えが入り込んでくるまではインドの女性は本当に幸福であったという反論は、まともに取り上げる価値もない。」(p.45、L10)

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2015年02月26日

坂本義和『相対化の時代』岩波新書/国家からの自立、市民社会

相対化の時代 (岩波新書)

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・「現在の世界秩序の構造、とくにその変動を理解するためには、少なくとも四つのディメンション、つまり、国際組織、国家、市場、市民社会を視野に入れることが不可欠になっている。(...)もちろん、この四つが同じ比重を占めているわけではないし、これらが相互にどう関連するか、またその関連が歴史的にどう変動するかは、さらに検討しなければならない」。(p. 39)

・「国家は、かつては「主権の絶対性」というイデオロギーを掲げていたが(...)現在では、主権の相対化が進んでいる。また、国際組織は、もともと国家間の組織だから、国家の相対化、とくにヘゲモニー国家の自己相対化にともなって、国連などの国際組織の相対化が進んでいる」。(p. 39)

・「このように、国家と国際組織が相対化される反面で、他の二つ、つまり市場と市民社会は、それぞれの力学を内蔵しながら、市場は世界化(globalization)を、市民社会は普遍化(universalization)を進めている。ここで世界化というのは、世界全体を一つの単位として貫徹していることを指し、普遍化とは、まずそれぞれの社会でたように形成されているが、しかし基本的に共通の思想や行動様式が通底していることを指す。」(p. 40)

・「こうした市場の世界化と市民社会の普遍化の力学が、今日、国家と国際組織の相対化を推し進めている。つまり、資本主義市場経済は、国家からの自立を志向し、その自律的発展に必要な秩序維持に国家の役割を限定する。ここに起こるのは規制の緩和・撤廃による経済の自由化(liberalization)である。」(p. 41)
 * → ネオリベラリズム

・「また市民社会も国家からの自立を志向し、その自律的発展に必要な秩序形成に国家の役割を限定する。そこに起こるのは政治の民主化過程(democratization)である。」

・「市場化は、基本的に人間の社会関係の商品化(commodification)に立脚している。(...)そして、市場は国家や国境を越え、したがって国家間の対立は緩和し、部分的な摩擦の域にとどまるかもしれないが、他方で、必ず不平等や格差を生じ、国内で、あるいは国境を横断して(たとえば、いくつもの国にわたる失業や産業公害の犠牲者)、社会的な亀裂を生み出す危険をはらんでいる。」(pp. 41-42)

・「これに対して、市民社会は、社会関係と歴史過程の人間化(humanization)を基本的な役割とする。」(p. 42)

・市民社会という言葉で「私が指すのは、人間の尊厳と平等な権利との相互承認に立脚する社会関係がつくる公共空間だが、それは無時間的な空間ではなく、不断の歴史的形成の過程そのものなのである。(...)市民社会とは、単に経験的に存在している社会関係だけを指しているのではない。それは単なる分析概念ではなく、ひとつの批判概念であり、規範的な意味をも含んでいる。換言すれば、それは、「現実」と離れた規範や理念ではなく、人間の尊厳と平等な権利とを認め合った人間関係や社会を創り、また支えるという行動をしている市民の社会関係を指しており、そうした規範意識をもって実在している人々が市民なのである。」(p. 43)

【社会と市民社会は違う】
・「国家と区別された生活領域をさすものとして「社会」という言葉が古くから使われているが、この場合の「社会」は、市場と区別されておらず、市場を含むのが普通である。(...)「社会」レベルにあるにせよ、国家や市場を志向し、それと親和性をもつような組織や行動は、市民社会に含まれないばかりか、それと緊張・対立の関係に立つ。」(p. 44)

・「市民社会とは何かは、たえず市民自身が再定義していく歴史過程だと私は考えている。私が東欧などでの民主化のたたかいの中で形成された「市民社会」概念を重視するのは、それが理論家の定義によるのではなく、市民が自分たちの行動や運動の意味づけを自分たちで行いつつ、自分たちの共同のアイデンティティと公共空間を確立して行くという、歴史的な過程の自己表現だからである。」(p. 46)

・「このような意味の市民社会は、市場を支える「ブルジョワ社会」とは別であり、むしろそれに対立する。というのは、市場は国家を相対化すると同時に、市民をも相対化するからである。つまり市場は、人間を機能や「はたらき」でとらえて相対化し、商品として手段化する。それは尊厳と人権の主体としての、つまり目的としての人間がつくる社会関係とは対立する。」(p. 46)

・「市場は、人間を動かして一定の経済社会秩序を形成する非常に強い力をもっているが、しかし市場を守るために命を捨てるという人は、まずいないだろう。なぜなら、つとにアダム・スミスやヘーゲルが指摘したように、市場は利己心や欲望の充足手段の場であるから協力なのであって、それは、人間のアイデンティティの探求と重ならないばかりでなく、かえって人間のアイデンティティを抹消していく機能をもっているからである。」(p. 47)

・「市場、経済自由化、規制緩和などの正統性の根拠は、最終的には効率であり、競争が生産性を高めるということであるから、これは本来的に「手段の合理性」の域を脱しないものであり、相対性の世界でしかない。
 それに対して、市民社会の正統性の根拠は、目的としての人間の主体の自立であって、これはウェーバーのいう「価値合理性」、つまり目的価値の領域に属する。したがって、そこには手段化できない終局価値という意味での絶対性の世界がある。」(p. 50)





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タグ:市民社会
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2015年02月22日

佐伯啓思『自由とは何か−−「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』講談社現代新書(7)

自由とは何か (講談社現代新書)




「負荷なき自己」もある特定の社会の産物

・「リベラリズムの基本的な考え方は、個人を取り巻く偶然性をできるだけ排除し、純粋に「個人」そのものを抽出してゆくことであった。このレベルにおいて定義された個人は、何らかの社会的な属性の刻印をも押されず、どのようなタイプの社会に属するか(それもまた偶然なのである)とは無関係に、アプリオリに想定できる、とみなされた。いっさいの価値を付与されない「負荷なき自己」であり、透明で抽象的な個人である。(...)このいっさいの社会的「負荷」を背負っていない個人において「権利」が設定された。これが、リベラリズムの典型的な理論構造であった。」(p. 220)

・「このような抽象的で透明な個人、「負荷なき自己」さえも、実は、ひとつのある特定のタイプの社会(共同体)の産物だ(...)。これは、当然といえば当然のことである。にもかかわらず、そのことを認識しておくことは決定的に重要である。もしも、純粋に抽出された個人などという普遍的なものが決してアプリオリにはあり得ないとすれば、個人の生まれによって付与されたさまざまな偶然性を剥ぎ取っていくという作業にも、さして大きな意味はない、ということになろう。」(p. 221)

*今後の読書のために
・「負荷なき自己」(the unencumbered self)
・マイケル・サンデル『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房、2009年)

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