2015年01月29日

竹田篤司『明治人の教養』文春新書

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明治人の教養 (文春新書)

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・「『明治人の教養』とは、羊頭狗肉ではないにしても、大仰な題であろう。わたしはただ、歴史の中における過去と現在の微妙な関係、連続でもなく断絶でもない何らかのつながりを、できれば見出したいと思っているのだ。そして、仮に『教養』と呼ばれるものが、その『つながり』になり得るかどうか、かすかに期待しているのである。」(p. 12)

「歴史の流れは、掌を反すように、一挙に白が黒になるわけではない。緩急の差こそあれ、あくまでも徐々にであって、そこにはつねに連続性が存在している。」(p. 2)

・「天野と倫理学。人と学との取り合わせの妙を、これほど見事にしめしているものは又とあるまい。カント『純粋理性批判』の中の名高い命題「汝なし能う、汝なすべきがゆえに」ほど、天野の人柄に似つかわしいものはない。」(p. 156)

・「『幸福が目標なのではなく、幸福に値するように生きることが大事』とする天野の教えは(もちろんカントにもとづくものだが)、現代において、なお有効であることを失わない。」(p. 163)

・「現在(短大も含めて)大学教員の数は、せいぜい5万人くらいのものだ(ゴマンといる、ではない)。社会全体からすれば、依然として、『超』の字が付くマイノリティーであろう。が、だからといって、彼らを教養あるエリートだとはだれも呼ばない。」(pp. 176-177)

「教養は個人の問題である以上に、むしろ時代や社会の最大の課題である。」(pp. 177-178)

・「なるほど、あなたは鎖になど繋がれてはいない。が実は、目に見えない「鎖」によって、ぐるぐる巻きに縛りつけられているのではないか。」(p. 181)

● 本書に関連するリンク
竹田篤司『明治人の教養』(松岡正剛の千夜千冊)
 ・「教養もリベラル・アーツも、一人で身につける知識というものではなく、互いに互いが“あいだ”を深めあうことなのである。」

タグ:教養
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カント『永遠平和のために』岩波文庫

★高校生のうちに読んでおきたい本


永遠平和のために (岩波文庫)




第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
 なぜなら、その場合には、それは実はたんなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである。(p. 13)


人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。(p. 17)


ところで戦争は、自然状態において(この状態においては、法的な効力をそなえた判決を下す裁判所がない)、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき非常手段にすぎない。(p. 20-21)


第一に、社会の成員が(人間として)自由であるという原理、第二に、すべての成員が唯一で共同の立法に(臣民として)従属することの諸原則、第三に、すべての成員が(国民として)平等であるという法則、この三つに基づいて設立された体制−−これは根源的な契約の理念から生ずる唯一の体制であり、この理念に民族の合法的なすべての立法が基づいていなければならないのであるが、こうした体制が共和的である。(pp. 28-29)


国家権力をもつ人員(支配者の数)が少なければ少ないほど、またこれに反して国家権力を代表する程度が大きければ大きいほど、それだけいっそう国家体制は共和制の可能性に合致し、漸進的な改革を通じて、ついには共和制にまで高まることが期待できる、と。(p. 35)


国王が哲学することや、哲学者が国王になることは、期待されるべきことではなく、また望まれるべきことでもない。なぜなら、権力の所有は、理性の自由な判断をどうしても損なうことになるからである。だが国王が、あるいは王者らしい(みずからを平等の法則にしたがって支配する)民族が、哲学者階級を消滅させたり、沈黙させたりしないで、かえって公然と語らせることは、双方にとってそれぞれの職務を明らかにするために必要不可欠なことである。(p. 75)


国家戦略をこととするひとびとは、実践を誇りとするが、実はかれらがかかわりあっているのはさまざまな策略であって、かれらが思案をめぐらしているのは、ただ次のこと、つまり現在支配している権力におもねって(自分たちの私的な利益を失わないために)、国民や、できれば全世界をも犠牲にするということであ(る)。(p. 83)


実践哲学を整合的なものにするには、まず最初に次の問題を解決する必要がある。すなわちそれは、実践理性の課題にかんして、実践理性の実質的原理、つまり(選択意志の対象である)目的から出発すべきなのか、それとも形式的原則、つまり(目的が何であれ)汝の格率が普遍的法則となることを、汝が意志することができるように行為せよ、という(外的関係における自由を基盤とするだけの)原理から出発すべきなのか、という問題である。/疑う余地もなく、後者の原理が先行しなければならない。(p. 90)





● 本書に関連するリンク
『永遠平和のために』カント(書評空間)


タグ:カント 哲学
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ルソー『孤独な散歩者の夢想』新潮文庫

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孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)

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・「僕は自分の全努力がむだであることを感じ、かついたずらに煩悶しているのだと知って、自分に残されている唯一の決心をしたのである。すなわち、自分の運命に甘んじようという決心で、今後は、必然的なことには反抗しないことにしたのである。僕はこのあきらめの中に、僕のあらゆる不幸の償いを見いだしたのだ。それは、あきらめのために得た静謐であった。困難にして効果のうすい抗争の絶え間ない活動などは縁のない静謐であった。」(p. 9)

・「もとより苦難が偉大な教師であることはいうまでもない。しかし、この教師たるや授業料がはなはだ高価で、それから得る利益が、支払った対価ほどでないことが多いのだ。そのうえ、かくのごとき晩学では、学んだ知識をことごとくわがものとする前に、それを適用すべき時期が過ぎ去ってしまう。青春時代は叡智を学ぶべきときである。老年時代はそれを実行すべきときである。」(p. 37)

・「こうして僕は知ったのである、善いことを心たのしくなすためには、僕は自由に、拘束なく行動する必要があることを。そして、善行が僕にとって義務になれば、ただそれだけで、そのあらゆる甘美は奪われてしまうものであることを。そのときから、責務の重圧のため、最も甘美な享楽も、僕には重荷になってしまう。」(p. 112)

・「かかる悲しむべき状態の中で、僕が絶望に陥るのは当然のことに思われたのに、長い苦悩を重ねた果て、僕がそこにふたたび見いだしたのは、静謐、安穏、平和、そして、幸福でさえあった。なにしろ、僕の生活の日々は、前の日を心たのしく思い出すことであり、そして、翌日も、きょうの日と同じようであるのを念ずることであるから。」(p. 156)

・「僕は明日の苦労などくよくよ考えてみてもしかたない、ただ、きょう苦しまなくて、安閑としていられればそれで結構だ。」(p. 162)

・「幸福というのは、一つの不易の状態であるが、かかる状態は、この世では人間にとって誂えむきにできていないらしい。地上にある一切は普段の変転のなかにあって、不変の形体をとることは何物にもゆるされないのである。われわれの周囲の一切のものは変化する。われわれ自身が変化する。そして、きょう愛するものを明日も愛するであろうなどと、いかなる人といえども確信することはできまい。かようにして、現世の至福を求めようとするわれわれの計画はすべて妄想でしかないのだから、精神の満足が得られるときには、のがさずそれを有益に使おう。迂闊にもそれを疎んずるようなことはしまい。」(p. 170)

・「僕は幸福な人間というのをめったに見たことがない。おそらくは一人も見なかったろう。しかしながら、心の満足している人々ならしばしば見た。そして、僕を感動させたあらゆる対象の中で、僕自身を最も満足させたのは、実にこういう人だったのである。(中略)満足は、眼に、容貌に、語調に、足どりに読みとられる。そして、その満足に気づく人にも、それは伝播するように思われる。」(pp. 170-171)

・「孤独と黙想を求める嗜好が、僕の心に生れた。そして、それと同時に、その心の糧になるためのあふれでるやさしい感情が生れてきた。喧噪と騒音は、そのようなういういしい感情をしめつけ、窒息させる。静寂と平和は、これを活発にし、昂らせる。」(p. 195)

● 本書に関連するリンク
ジャン・ジャック・ルソー「孤独な散歩者の夢想」(松岡正剛の千夜千冊)

・(PDF)井上櫻子「『孤独な散歩者の夢想』における自己弁護の戦略−−ルソーにおける道徳性と快楽に関する思索と夢想の概念との関係」(『仏文研究』2005, 36: 11-36)

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