2017年02月20日

セイラ・ベンハビブ『他者の権利』

他者の権利 〈新装版〉: 外国人・居留民・市民




他者の権利―外国人・居留民・市民




序論


 本書では、政治的成員資格に焦点をあてることで、政治共同体の境界線が検証される。ここでいう政治的成員資格とは、外国人やよそ者、移民やニューカマー、難民や庇護申請者を、現存する政体に編入するための原理と実践のことである。(中略)本書では、国境横断的な移住が、そして国境を超えた諸国民の移動によって提示された憲法上および政策上の争点が、国家間の関係の、したがってグローバルな正義の規範理論にとって重大であることを論じてみたい(p. 1-2)。


哲学的な観点からみれば、国境横断的な移住は、自由民主主義体制の核心にある構成的なディレンマ、すなわち、一方における主権的な自己決定の要求と、他方における普遍的な人権原則の支持とのディレンマを前面に押し出している。本書では、これらの二重の公約の内的再構築をつうじて、政治的成員資格をめぐる実践が、もっとも明らかにされることを論じるつもりである(p。2)


私は(中略)カントのコスモポリタン的連邦主義の伝統に従いながら、境界づけられた共同体における成員資格の重要性を強調し、そこでの「民主的な愛着」の必要を擁護するつもりである。(p. 2)


 私の立場は、成員資格の問いよりも資源や権利の配分問題を優先する、最近の新カント派の国際的な正義論とは異なっている。ここでの主張は、コスモポリタン的な正義論はグローバルな規模での正しい配分という図式に限定されるのではなく、正しい成員資格の構想もまた組み込まなければならない、ということである。この正しい成員資格は、難民や亡命者たちの最初の入国への道徳的要求を認めること、移民が入りやすい国境の管理体制、国籍剥奪や市民権喪失の禁止、そして、すべての人間が「権利をもつ」権利、つまり、それぞれの政治的成員資格の地位にかかわりなく、すべての人間が何らかの不可譲(ふかじょう)の権利を付与された法的人格とみなされる、そうした権利の擁護を含んでいる。外国人という地位は、いかなる基本的権利も剥奪されるものであってはならないのだ。さらに、正しい成員資格には、いくつかの条件を満たした外国人に関しては、市民資格への権利もまた含まれている。永遠によそ者であることは、自由民主主義的な人間共同体の理解と両立しないだけではない。それは基本的人権の侵害でもある。政治的成員資格への権利は、規模において非差別的で、公式と執行において透明で、国家や国家のような期間によって侵害されたときには法的に争われうる、そのような実践によって調停されなければならない。これまで帰化、市民資格、国籍剥奪の決定を国際法廷および憲法裁判所から守ってきた、国家主権の原則が問われなければならないのである。(pp. 3-4)


 世界人権宣言(United Nations 1948)は、越境移動の自由への権利を認めている。しかし、それは転出すなわち出国する権利であって、転入すなわち入国する権利ではない(第13条)。宣言の第14条は特定の状況下での庇護を受ける権利を文言化し、第15条はすべての人が「国籍をもつ権利」をもつと明記している。第15条の後半は「何人も恣意的に自らの国籍を奪われ、あるいは国籍を変更する権利を否認されることはない」と規定している。

 世界人権宣言は、国家が移民の入国を許可し、庇護の権利を支持し、外国人居留民や永住外国人に市民資格を付与する義務については沈黙している。これらの権利は特定の名宛人をもっておらず、それゆえ従われるべき特定の義務が、第二、第三の名宛人に課されることもないように思われる。かくして、普遍的人権と領土的主権との一連の内的矛盾が、今日の世界のもっとも包括的な国際法文書の論理のなかに組み込まれることになる。(p. 9)





 
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浅井美智子「生殖技術と自己決定」

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)




浅井美智子「生殖技術と自己決定−−代理母のエシックス/ポリティクス」(PP. 159-178)


生殖へのある種の個人的欲望の実現は、自己決定権として正当化されない場合もあるだろう。それは、人間が社会的存在以外のものではありえないことと接続しているように思える。ここでは、それをとりあえず倫理と呼んでおこう。(PP. 160-161)


英米のみが「代理母」を容認しているが、それは背景に功利主義の倫理学があるからだと思われる。つまり、功利主義は、倫理的に正しい行為を、可能な限り多数の人々に共有されうる肯定的な価値(善)とみなされるものだと定義する。したがって、イギリスでは、商業的代理母は(ウォーノック・リポートがいうように)「他人を手段とする」ことだとして禁止されているが、慈善の代理母は相互の母の幸福(子どもをもつこと)だとして是認されている。アメリカは自由と自己決定が基本であり、結果として不幸を招いたときに調停される。つまり不幸の軽減が図られるのである。(P. 174)


 日本では、ドイツ・フランスと同じく、いかなる代理母も禁止の方向が打ち出されている。禁止の根拠はどこにあるのだろうか。これまで見てきたように、善意の代理母が存在し、それがたとえ一方的な慈善的行為であろうとも、海外に代理母を求める人々を止めることはできない。それでは日本国内ではどうか。

 国内では、姉妹の妹が子宮のない姉に代わって姉夫婦の受精卵を妊娠・出産した例がある。英米のように慈善の代理母を調達するのは難しいが、この事例は血縁者によってなされた代理母であり、その意味で容認しがたい。なぜなら、それは血縁者の犠牲を前提とすることは、個別的にはどれほど慈善的行為であろうとも、不妊の姉妹をもつ女性に抑圧的な言説を用意することになるからである。法的に規制するのであれば、このような抑圧は最も避けねばならないことである(P. 174)。




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2017年02月09日

浅井美智子「生殖技術と自己決定−−代理母のエシックス/ポリティクス」

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)




1 生殖医療の現在


 性と生殖が否応なく合致していた時代には、生まれた子どもに対する道徳的責任はその子どもを作り出した男と女にある、とされていた。男性は性の責任を「妻子を養う」という経済性に、女性は妊娠・出産・育児を担う労働性に、まさに性別役割分業において生殖責任を果たすことになっていた。この責任を全うするための装置が近代家族である。

 しかしながら、フェミニズムは、婚姻制度に組み込まれた性・生殖がその道徳性において男が女を支配する装置を稼働させるものであることを指摘した。つまり、近代家族は婚姻関係にある女性の貞操や母性愛という自然が子どもを育てるというような道徳を流布してきたが、それは要するに性と生殖における男性支配を正当化しているだけである、という。フェミニズムはそれをファロセントリズム、家父長制として批判してきた(p. 161)。

→ 現代は、上記の「道徳」が「弛緩」している。

技術的な「ヒトの生産」をどう社会的に認知するか、すなわち、今日の道徳的に弛緩した子産み、子育て環境において、生殖技術のどのような規範化が可能か、それが新しい人間の誕生を現実のものとしたわれわれの社会に課せられた問題である(p. 162)。

 
 たしかに一般的な意味で自分の子どもをもとうとすることは自由であり、「生殖への権利」としてすら措定できるだろう。しかし、個々の欲望の実現が医療システムに許容されるには、治療としての正当性がなくてはならない。したがって、身体的には子どもを産めるけれども、時間的にゆとりがない、体型が崩れる、単に産みたくない、など、身体的に妊娠・出産が可能な人が、個人的理由によって代理母を頼むことは医療とは認知されないだろう(p. 162)。


 では、次のような場合はどうだろう。@妊娠・出産がその女性の生命を著しく傷つける場合、A子宮を事故や疾病で失った女性、B子宮がもともとない女性、C閉経後の女性、D子宮のない男性、彼らが代理母を頼むことは医療的に可能だろうか。

 CDの場合は、生殖において生物学的に不可能な事態、すなわち「不妊」ではないから治療の対象者となりえない。問題は、@ABの場合である。

 妊娠・出産が生物学的に女性性固有の特質であるなら、たしかに、彼らは幸福のために、可能な限り最善の医療の恩恵を望むことは否定されない。臓器移植が医療として認知されているのだから、子宮の移植の可能性が模索されていない以上、代理母を頼むことが子どもをもつ最善の方法とすれば、医療的恩恵を受ける方法として代理母を不妊治療のカテゴリーに入れる可能性は皆無ではない。

 しかし、現実的な問題として、医療と認知されるには医療提供者とその享受者それぞれの選択の自由があるとはいえ、上記理由のすべての人たちに平等に代理母を割り振ることが可能だろうか。この場合、妊娠・出産を代理する女性は医療資源とみなされるのだが、代理母の人権はどうなるのだろう。また、生まれてくる子どもは現行の法律では代理母の子どもとなる。まさにこれから生きる子どもにその初めから複雑な親子関係を用意することが社会的(養育する)母の「不妊治療」として許容されるのか(p. 163)。







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