2018年01月18日

ヘルマン・ヘッセ「紛失したポケットナイフ」(2)

文庫 庭仕事の愉しみ (草思社文庫)




紛失したポケットナイフ(つづき)

 あの美しい三日月型の庭仕事用のナイフを手に入れた日を、私はまだはっきりと思い出すことができる。当時私はあらゆる点で非常に好調な時期にあり、自分自身もそれにふさわしい気分になっていた。結婚して間もない時期で、生計のための町と獄中のような生活から逃れて自立し、自分自身だけに責任をもって、ボーデン湖畔のある美しい村に住んでいた。私は、自分で書いて、自分でも気に入ったいくつかの本で成功した。私はボーデン湖に浮かぶボートをもっていた。妻は、はじめての子どもの誕生を待っていた。そして私はちょうどある大きな計画にとりかかっていたところで、そのことのために私は頭の中がいっぱいになっていた。

 それは自分の家の建築と、自分の庭づくりの構想である。土地はすでに購入し、測量がすんで、区画が決まっていた。その土地の上を歩くたびに、よく私はこの仕事のすばらしさと値打ちを厳かに感じたものであった。私はそこに生涯の礎石(そせき)を据え、わたし自身と妻と子たちのためにここに故郷と避難場所をつくるのだと思っていた。家の設計図もできあがった。庭は、私の頭の中でしだいに形を整えていた。中央に幅広く長い道があり、泉水があり、栗の木立の生えた草地をもった庭である。

 当時私は三十歳くらいであったが、ある日のこと私宛に船便で重い貨物が到着した。私はそれを荷揚げの桟橋から引き上げる手伝いをした。それはある造園会社から来たもので、庭仕事の道具がいっぱい詰まっていた。鋤、スコップ、ツルハシ、熊手、鍬(これらの中ではとくに白鳥の首のついた鋤がとても気に入った)、そのほかたくさんのこの種のものであった。それにまじって、ていねいに布で包まれたいくつかの小さめの、繊細な道具があり、私は大喜びで包みを解いてそれらを眺めた。その中にあの曲がったナイフもあった。

 私はすぐにそれを開いて試してみた。その新しい鋼の刃がキラリと光り、手ごたえのある、引き締まった開閉バネがはね、柄のニッケルメッキの金具が光った。当時はそれは私の家具調度のささやかな付属品であり、ちっぽけなわき役にすぎなかった。そのナイフが、いつの日か私の美しく新しい財産のうちで、家と庭、家族と故郷などのうちで、ずっと私のものであり続け、私の手もとに留まる唯一のものになるであろうとは、考えもしなかった。

 それからまもなく私は、この新しいナイフで危うく指を一本切り落としそうになったことがあった。その傷跡は、今もなお残っている。そして、そうこうするうちに、庭ができて、植物が植えられ、家も建てられた。こうして私が庭へ行くたびに、何年ものあいだそのナイフは私の同伴者となった。そのナイフで果樹を剪定し、ヒマワリやダーリアを切って、花束をつくり、木を削って幼い息子たちの鞭の柄や弓をつくった。

 短い旅行のときは例外として、毎日私は庭で二、三時間を過ごした。それは、私が一年中自分で耕し、植物を植え、種を蒔き、水をやり、肥料をやり、取り入れをして、手入れをした庭である。そして涼しい季節には、庭の片隅でいつも小さな焚き火をして、雑草や古い地下茎(ちかけい)やあらゆる種類のごみを焼いて灰にしたものである。息子たちは喜んでそばにいて、細い枝や枯れたアシを火にくべ、ジャガイモや栗を焼いた。そんなときあのナイフが火の中に落ちたことがあり、以来その柄に小さな焦げの跡が残った。それを見れば私は、世界中のどんなナイフの中からもそのナイフを見分けることができたであろう(pp. 78-80)。
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2018年01月17日

ヘルマン・ヘッセ「紛失したポケットナイフ」(1)

 ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』の中で、私がもっとも気に入ったエッセイ「紛失したポケットナイフ」を紹介します。

文庫 庭仕事の愉しみ (草思社文庫)




紛失したポケットナイフ

 昨日私はポケットナイフをなくした。そのとき、私の運命に対する心の準備と人生観がもろい基盤の上に立っていることを思い知らされた。このささやかな損失が私を度を越して悲しませたからである。そして今日もまだあのなくしたナイフのことを考えていて、そんな自分を感傷的だと嘲笑することもできないのである。

 このナイフがなくなったくらいでこんなに悲しい気持ちになるのは、よい兆候ではない。自分がしばらくのあいだ所有していたものにひどく愛着を感じて大切にするのは、私自身がよく批判し、抵抗するものの、完全にはやめることができない奇癖のひとつなのである。そして私が長いあいだ身につけていた服とか帽子とか杖とか、それどころか長いあいだ住んでいた住まいに別れを告げなくてはならないとき、その都度それは私にとって不快なことであり、時として小さな苦痛さえ感じる。

 もっと深刻な別離や決別のことはこの際別としてである。それにあのナイフは、私のこれまでの生活の変化に耐えて生き、すべての変転を通じて何十年ものあいだ私についてきた、まったく数少ないもののひとつであった。

 たしかに私は、まだいくつかの、遠い過去から伝わる神聖なものとなったがらくたを、母の指輪をひとつ、父の時計をひとつ、幼い子どものころの二、三枚の写真など思い出の品をもってはいるけれど、実はこれらはすべて死んだものであり、歴史的遺物であり、戸棚にしまってあって、ほとんど一年に一度も眺めないものである。しかしこのナイフは、何年ものあいだ、ほとんど毎日使ったものであったし、私はそれを何千回となくポケットに入れ、ポケットから出して、仕事や遊びに使い、何百回も砥石で研ぎ直し、前にも何度もなくしては見つけ出したことがあるのだ。そのナイフは私の好きなものだった。そのナイフには挽歌を捧げる値打ちがある。

 それは普通のナイフではなかった。普通のナイフならこれまで生きてきたあいだにたくさんもっていたし、使ってきた。それは庭仕事用のナイフであった。ただ一枚の非常に強靭な、半月型に曲がった刃と、がっちりした、なめらかな木の柄のついた、決して贅沢品とか遊び道具ではなくて、正真正銘の堅牢な武器であり、大昔からの試練に耐えた形をもつ、堅実な工具であった。このような形は、百年も千年ものあいだの父祖たちの経験から生まれたもので、このような試練に耐えた形のかわりに、試練を経ていない、新しい、無意味で遊び半分の形を売り込もうという野心をもつ産業界の攻勢に対して、よくもちこたえることができるものである。

 何といっても、現代人が仕事や遊びのために使う道具を、長い期間使いたがらず、簡単に、頻繁にとりかえたがるというところに産業界は生存をかけているからである。もしも昔のように各人が一生に一回きり、強くて良質の高級なナイフを買い、それを大切に死ぬまで持ち続けるならば、どこにナイフ工場が存続することができるであろうか? 存続できないのである。今日人間は、ナイフ、フォーク、カフスボタン、帽子、散歩用の杖、傘などを、瞬間ごとにとりかえる。これらすべてのものを流行の支配下におくことに産業界は成功した。そして、一シーズンだけのものと予定されて作られたこれらの流行の形に、大昔からの定評ある、堅牢な形の美や、生命や、合理的性を求めることは土台無理な話なのである(pp. 76-78)。

ラベル:文学
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2017年02月20日

セイラ・ベンハビブ『他者の権利』

他者の権利 〈新装版〉: 外国人・居留民・市民




他者の権利―外国人・居留民・市民




序論


 本書では、政治的成員資格に焦点をあてることで、政治共同体の境界線が検証される。ここでいう政治的成員資格とは、外国人やよそ者、移民やニューカマー、難民や庇護申請者を、現存する政体に編入するための原理と実践のことである。(中略)本書では、国境横断的な移住が、そして国境を超えた諸国民の移動によって提示された憲法上および政策上の争点が、国家間の関係の、したがってグローバルな正義の規範理論にとって重大であることを論じてみたい(p. 1-2)。


哲学的な観点からみれば、国境横断的な移住は、自由民主主義体制の核心にある構成的なディレンマ、すなわち、一方における主権的な自己決定の要求と、他方における普遍的な人権原則の支持とのディレンマを前面に押し出している。本書では、これらの二重の公約の内的再構築をつうじて、政治的成員資格をめぐる実践が、もっとも明らかにされることを論じるつもりである(p。2)


私は(中略)カントのコスモポリタン的連邦主義の伝統に従いながら、境界づけられた共同体における成員資格の重要性を強調し、そこでの「民主的な愛着」の必要を擁護するつもりである。(p. 2)


 私の立場は、成員資格の問いよりも資源や権利の配分問題を優先する、最近の新カント派の国際的な正義論とは異なっている。ここでの主張は、コスモポリタン的な正義論はグローバルな規模での正しい配分という図式に限定されるのではなく、正しい成員資格の構想もまた組み込まなければならない、ということである。この正しい成員資格は、難民や亡命者たちの最初の入国への道徳的要求を認めること、移民が入りやすい国境の管理体制、国籍剥奪や市民権喪失の禁止、そして、すべての人間が「権利をもつ」権利、つまり、それぞれの政治的成員資格の地位にかかわりなく、すべての人間が何らかの不可譲(ふかじょう)の権利を付与された法的人格とみなされる、そうした権利の擁護を含んでいる。外国人という地位は、いかなる基本的権利も剥奪されるものであってはならないのだ。さらに、正しい成員資格には、いくつかの条件を満たした外国人に関しては、市民資格への権利もまた含まれている。永遠によそ者であることは、自由民主主義的な人間共同体の理解と両立しないだけではない。それは基本的人権の侵害でもある。政治的成員資格への権利は、規模において非差別的で、公式と執行において透明で、国家や国家のような期間によって侵害されたときには法的に争われうる、そのような実践によって調停されなければならない。これまで帰化、市民資格、国籍剥奪の決定を国際法廷および憲法裁判所から守ってきた、国家主権の原則が問われなければならないのである。(pp. 3-4)


 世界人権宣言(United Nations 1948)は、越境移動の自由への権利を認めている。しかし、それは転出すなわち出国する権利であって、転入すなわち入国する権利ではない(第13条)。宣言の第14条は特定の状況下での庇護を受ける権利を文言化し、第15条はすべての人が「国籍をもつ権利」をもつと明記している。第15条の後半は「何人も恣意的に自らの国籍を奪われ、あるいは国籍を変更する権利を否認されることはない」と規定している。

 世界人権宣言は、国家が移民の入国を許可し、庇護の権利を支持し、外国人居留民や永住外国人に市民資格を付与する義務については沈黙している。これらの権利は特定の名宛人をもっておらず、それゆえ従われるべき特定の義務が、第二、第三の名宛人に課されることもないように思われる。かくして、普遍的人権と領土的主権との一連の内的矛盾が、今日の世界のもっとも包括的な国際法文書の論理のなかに組み込まれることになる。(p. 9)





 
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